〈2026年2月度 座談会拝読御書〉妙一尼御前御消息(冬は必ず春となるの事)解説

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「冬は必ず春となる」――2月の寒さの中で読むと、しみる。


■御書新版 1696ページ1行目~3行目 

■御書全集 1253ページ16行目~17行目



目次

はじめに――2月って、なんだかそわそわしませんか?

2月。

1年で一番短い月なのに、なぜかイベントは盛りだくさん。節分で豆をまいたと思ったら、恵方巻をほおばり、バレンタインのチョコの棚の前でうっかり立ち止まり、気がつけば「あれ、もう3月目前?」となっている。あの短さ、ちょっとした時空のバグを疑いたくなります。

でも、私が2月を密かに気に入っている理由は、それだけじゃありません。

朝、カーテンを開けた時に「あれ? 今日、少し明るくない?」と気づく瞬間。ショーウインドウにふわっと並び始めるパステルカラーの春物コート。まだ手袋は外せないけれど、確実に何かが動き出している、あの予感。

まだ冬のど真ん中にいるのに、春が近づいていることだけは確信できる。

そんな「冬と春のあいだ」のような季節だからこそ、今月の座談会御書がぴったりはまるのです。

今回拝読するのは、「妙一尼御前御消息(みょういちあまごぜんごしょうそく)」――通称「冬は必ず春となる」の一節。仏法史上、最も有名な「季節の比喩」と言っても過言ではないこの御文を、じっくり味わっていきましょう。


そもそも「妙一尼御前御消息」って、どんなお手紙?

750年前、ある女性に届いた”励ましの手紙”

この御書は、1275年(建治元年)5月、日蓮大聖人が54歳の時に、身延(現在の山梨県)から鎌倉に住む女性門下・妙一尼(みょういちあま)に宛てて書かれたお手紙です。

「御消息(ごしょうそく)」とは「お手紙」のこと。現代で言うなら、LINEでもメールでもなく、わざわざ筆を執り、墨をすり、和紙に一字一字したためた――心のこもった”直筆の手紙”です。

では、妙一尼とはどんな人物だったのでしょうか。

妙一尼の”リアルな冬”

この手紙が書かれる4年前の1271年、大聖人は「竜の口の法難」(深夜に斬首されかけた事件)と「佐渡流罪」(島流しの刑)という、命にかかわる大迫害を受けました。そして、鎌倉に残っていた門下たちにも、嵐のような弾圧が吹き荒れます。

妙一尼は、そんな暴風雨の中でも夫と二人三脚で信仰を守り通しました。ところが――

  • 夫は信仰ゆえに所領(土地)を没収される
  • そのうえ、大聖人が佐渡流罪から赦免される朗報を聞く前に他界してしまう

つまり妙一尼は、夫を失い、幼く病弱な子どもたちを一人で抱え、経済的にも追い詰められていたのです。

現代に置き換えると、「パートナーに先立たれ、小さなお子さんは体が弱く、収入源も断たれて……」という状況でしょうか。想像するだけで胸が苦しくなります。


けれども、妙一尼はそれでも信心を手放しませんでした

それどころか、佐渡や身延にいる大聖人のもとへ従者を送り、さらには「衣」を御供養までしている。自分自身が大変な状況なのに、師匠を守ろうとしたのです。

この御消息は、その衣の御供養への御返事として書かれました。大聖人は手紙の中で、亡くなった夫の胸中を思いやり、妻子を遺して逝くことの無念さに心を寄せ、そして――あの有名な一節を記されるのです。


拝読御文

法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。

(御書新版1696ページ1行目~3行目・御書全集1253ページ16行目~17行目)

【現代語訳】

法華経を信じる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔から今まで、冬が秋に逆戻りしたなどということは、聞いたことも見たこともない。

それと同様に、法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままで終わるということも、聞いたことがない。

経文(法華経方便品第2)には「もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない者はいない」と説かれている。

【英文】

Those who believe in the Lotus Sutra are as if in winter, but winter always turns to spring. Never, from ancient times on, has anyone seen or heard of winter turning back to autumn. Nor have we ever heard of a believer in the Lotus Sutra who turned into an ordinary person. The sutra reads, “If there are those who hear the Law, then not a one will fail to attain Buddhahood.”

The Writings of Nichiren Daishonin, vol.1, p.536


御文の解説――なぜ「冬」で、なぜ「春」なのか?

①「冬のごとし」――信仰者に苦難がやってくる理由

正直に言います。

この御文を初めて読んだ時、私は「冬のごとし」の部分でまず引っかかりました。

だって、ふつう宗教のセールストークって「信じれば幸せになれますよ!」じゃないですか。それなのに、いきなり「信じる人は冬です」と断言してくる。

「ちょっと待って、冬? 春じゃなくて?」

でも、ここが日蓮大聖人の仏法の、ある意味”誠実すぎるところ”です。

仏法では、真剣に信仰を実践し始めると、「三障四魔(さんしょうしま)」や「三類の強敵(さんるいのごうてき)」と呼ばれるさまざまな妨げが起こると説かれています。簡単に言えば、「本気で前に進もうとすると、向かい風が吹く」ということです。

ランニングを始めた人が最初の1キロで息切れするのも、新しいことに挑戦した時ほど失敗が怖くなるのも、ある意味で同じ構造かもしれません。前進しているからこそ、抵抗を感じる。止まっていれば風はそよ風ですが、走り出した瞬間に逆風になるわけです。

②「冬は必ず春となる」――自然の法則が語る絶対の法則

ここで大聖人は、「冬が秋に逆戻りすることはない」という誰もが納得できる自然の法則を引き合いに出されます。

これ、よく考えるとすごいロジックです。

「え、冬が秋に戻ったことある?」 「ないですよね」 「じゃあ法華経を信じた人が仏になれないことも、ないんですよ」

三段論法のようで、自然界の摂理を「証拠」にした、力強い確信の論理です。


私たちは日常の中で、苦しい時に「このつらさはいつまで続くんだろう」と感じることがあります。冬の寒さの中にいると、まるで永遠に春が来ないかのように思えてしまう。

しかし大聖人は、季節が後戻りしないのと同じくらい確実に、あなたの苦しみには終わりがあり、その先には必ず幸福があるのだと言い切ってくださっている。

しかもそれは「たぶんそうなるといいね」というふわっとした希望ではなく、「冬→春」という不可逆の自然法則と同列に語られている絶対の確信なのです。

③「一りとして成仏せざることなけん」――全員が幸福になれる

最後に引かれる法華経方便品の一節が、またすごい。

「一人として成仏しない者はいない」

「一人として」です。例外なし。100人いれば100人、1万人いれば1万人、全員。成績順でも早い者勝ちでもなく、誰一人漏れることなく幸福になれると説かれている。

これは、悲嘆の中にあった妙一尼にとって、どれほどの希望だったでしょうか。

「あなたの夫は必ず成仏しています。そしてあなた自身も、必ず幸せになれるのです」――大聖人はこの御文を通して、そう力強く宣言されたのです。


“推し”を支え続けた妙一尼のすごさ

ここでちょっと視点を変えて、妙一尼という人物の”すごさ”について考えてみたいと思います。

現代風に(不謹慎を承知で)言い換えると、妙一尼は「最も過酷な状況にいながら、”推し”(大聖人)を支え続けた人」です。

夫を亡くし、子どもたちは病弱、財産も奪われた。そんな状態で、普通なら自分のことで精いっぱいです。それなのに、佐渡や身延に従者を送り、さらには衣まで御供養している。

これは単なる「推し活」のレベルではありません。自分自身が極寒の冬の中にいながら、同じく厳しい環境にいる師匠を温めようとした、まさに信仰の結晶のような行動です。

そしてその妙一尼に対して、大聖人は宇宙の法則レベルの確信をもって「あなたは絶対に幸せになる」と約束された。

750年の時を超えて、このやりとりに胸が熱くなります。


冬を「通過」するのではなく、冬と「向き合う」信心

さて、この御文で一つ注意したいポイントがあります。

大聖人は「冬をスキップして春にする方法」を教えているのではないということです。

冬は必ず春となる。でも、「冬をなくす」とは言っていない。

むしろ、「法華経を信ずる人は冬のごとし」と明言されている通り、信仰者には冬が来る。避けられない。

正直なところ、私だって「冬は来なくてずっと春」がいちばんありがたい。毎日ポカポカ陽気で、お花見日和で、花粉だけ飛ばなければ最高です。

でも、考えてみれば、冬を経験しない人に「春の暖かさ」は分からない。マイナス5度の朝を知っているからこそ、3月の陽射しの柔らかさに目頭が熱くなるのです。

人生も同じではないでしょうか。

苦しみの中でもがいた経験があるからこそ、人の痛みがわかる。負けそうになった夜があるからこそ、勝った朝の景色がまぶしい。冬があるから春がある。そして冬を越えるたびに、自分自身の「春」はもっと深く、もっと暖かいものになっていく

池田先生は次のように述べられています。

「法華経の信心は『冬』のようなものです。その厳しい宿命転換の戦いがあって初めて『春』を到来させ、福運を築くことができる。ゆえに試練の冬を避けてはならない」(『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻)

試練を避けるのではなく、試練にこそ意味がある。この逆転の発想が、仏法のすごさだと感じます。


「もう勝利の春が始まっている」

最後に、もう一つ池田先生の言葉を紹介させてください。

「誰人たりとも、『生老病死』の苦悩を避けることはできない。誰もが厳しい冬を耐え、戦わねばならぬ運命にあるともいえよう。だが、冬があればこそ、本当の春を知ることができる。御本尊を持った人は、人生の闘争の誉れの勇者なのだ。

たとえ今、試練の冬にあろうとも、心は閉じこもりはしない。一歩、北風に踏み出す勇気に、戦う力、負けない力が湧き上がる。その心には、もう勝利の春が始まっているのだ」(『随筆 永遠なれ創価の大城』)

「その心には、もう勝利の春が始まっているのだ」

この言葉がたまらなく好きです。

春はまだ来ていない。状況は変わっていないかもしれない。でも、「負けない」と決めて一歩踏み出したその瞬間に、心の中ではもう春が始まっている――。

つまり、春を決めるのは「カレンダー」ではなく「心」なんです。

外の天気がどうであれ、自分の中に春を起こしていける。それが信仰の力であり、「冬は必ず春となる」という御文の真髄なのではないかと思います。


おわりに

2月の冷たい空気の中、ふと空を見上げると、日の出が少しだけ早くなっていることに気づきます。

まだコートは手放せないし、朝は布団から出るのに気合がいる。けれど、確実に、一歩ずつ、春はこちらに向かっている。

もし今、あなたの人生に「冬」が訪れているとしたら。

思い出してほしいのです。750年前、同じように苦しみの中にいた一人の女性に、大聖人がどれほどの確信をもって「春は来る」と約束されたかを。

そしてその約束は、妙一尼だけに向けられたものではありません。時代も場所も超えて、今を生きる私たち一人一人への、大聖人からの”手紙”でもあるのです。

冬の寒さの中で、今日もまた一歩。

「冬は必ず春となる」 ――この確信を胸に、勝利の花を爛漫と咲かせていきましょう。

座談会で使用できるスライドショーはこちらからダウンロードできます。ご自由にご活用ください

https://drive.google.com/file/d/13_O8JbTZY_9_kfH66IILwWWEWzI6r9B4/view?usp=sharing

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