信解品②|糞掃の子が知った、父の慈悲と一乗の真実

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今回の信解品第四(長者窮子の譬喩の中盤〜結語)は、法華経の「意味」を分かりやすく理解するうえで、方便(段階的に導く智慧)がどれほど現実的で、どれほど厳しい慈悲かを突きつけます。父(長者=如来)は、子(私たち=弟子・衆生)をいきなり相続人として迎えません。劣等感と恐怖に縛られた心には、真実を直に見せても耐えられないからです。そこで父は「糞を掃く仕事」から始め、少しずつ距離を詰め、やがて「私がおまえの父のようなものだ」とまで言い、最後には公の場で「これはわが子」と宣言します。
一方、子は宝蔵を知らされても、なお一つの食べ物すら求めず、住まいも元のままです。ここに、因果応報の厳格さ――卑しい自己像(業)が、救いを受け取る器を狭めるという構図が出ます。そして結語で弟子たちは自白します。「小法(自己の悟りのみ)に執着し、糞を宝だと思っていた」と。法華経が説く一乗とは、ただ“全員救済”の綺麗事ではありません。受け取る側の矜持と業を作り替える、覚悟の道なのだと、この回は教えます。

目次

「二倍の賃金」――救いは甘い声ではなく、泥と糞の匂いから始まる

父は、二人の使いに言った。
「おまえはあそこへ行って、困窮している子におだやかに話しなさい。ここに働くところがある。二倍の賃金をおまえに与えよう。」

言葉は穏やかだ。だが狙いは鋭い。
子の魂は、まだ“王のごとき威厳”に怯えている。真正面から抱けば、子は砕ける。だから、まず賃金の話に落とす。生きるための話に落とす。――方便とは、こういう冷徹な優しさだ。

「困窮している子が、もし同意したなら、連れてきて働かせなさい。」
「もし何の仕事をするのかといったなら、こう話しなさい。おまえを雇うのは糞を掃除させるためだと。」
「私たち二人もまた、おまえと一緒に働くと。」

二人の使いは、子を探し出し、言われたとおりを告げた。
子は賃金を受け取り、糞の掃除をした。

――ここだ。
救いは最初、眩しくない。
光ではなく、臭いの中から始まる。
それでも、業(ごう)をほどく手順は、ここにしかない。

救いは、泥と糞を掃く手から始まる

父が汚れる――珠玉を脱ぎ、垢と油の衣をまとう「覚悟」

父は、子を見て憐れんだ。心配になった。
ある日、窓の中からはるかに子の姿を見る。
疲れて、痩せて、やつれ、糞や土やごみに汚れ、不浄だった。

そこで父は――脱いだ。
珠玉を連ねた首飾り。腕輪。細く柔らかな上着。装飾品。
それらを脱ぎ捨て、粗末でよくない、垢と油で汚れた衣服を着る。
ゴミや土で体を汚す。
右手に糞の入れ物を持つ。
恐る恐る近づく。

私は、ここで息をのむ。
神でも王でもない。
これは、覚悟を持った者の“降り方”だ。
上から救うのではない。下へ降りて、同じ臭いをまとい、同じ目線でしか近づけない心がある。

父は働く者たちに言う。
「おまえたち、よく働いて怠けることがないように。」

その言葉は、労務の指示に聞こえる。
だが実態は、目的を達するための便宜――方便によって、子へ近づくための橋だ。

宝を捨てて汚れる――それが慈悲の覚悟となる

「父のようなものだ」――心の器を広げるための、言葉の鍛冶

父は後に告げた。
「おい、そこの男、おまえはいつもここで仕事をしろ。また、他所へ行ってはいけない。
当然、おまえには余計に賃金をあげよう。
いろいろなお盆や器、米や麺、塩や酢がある。自ら疑って遠慮をするな。
また老いぼれの使いをする者がいる、使うならばあげよう。
自分自身をもっと気安くしなさい、私はおまえの父のようなものだ。
また思い煩うことをしないように。」

そして釘を刺す。因果は細部で決まる。
「私は年老いているが、おまえは若い。
おまえが常に働くときに、うそをついて怠けたり、怒り恨んだり、うらみの言葉を言ってはなりません。」

この「してはならない」は罰ではない。
器を壊す行為を止めるためだ。
業は、怠けと怒りと怨みの言葉で、すぐ増える。増えれば、宝蔵が遠のく。因果応報は、ここで既に働いている。

父は言う。
「全てに於いて、おまえはこの諸々の悪いことをしていないが、そのほかの使用人にはよくあることである。
今後、私の所で生まれた子供のようにしなさい。」

そして長者は、さらに名前を作り、子供のように名づけた。

子はこの待遇を喜ぶ。
だが、それでもまだ、自らを雇い人で身分の卑しい者だと言った。

救いは与えられても、卑しさ(業)が器を縮める

二十年の糞掃除――近づける距離は近づくが、住まいはなお元のまま

この理由によって、二十年の間、常に糞の掃除をさせた。
二十年――数の重さが、ここでは骨に染みる。

やがて、それを過ぎて以後、心は通じ合い、遠慮なく出入りした。
それでもなお、住む場所は元の所だった。

――救いに近づきながら、帰る場所を変えない。
人間の業は、こうして自分を縛る。
外から見れば自由なのに、内側が許さない。


臨終の宣言――「これはわが子」宝蔵は、魂の叫びで開かれる

世尊、その時に長者は病気になった。
自ら、死が遠くないことを知る。

子に話した。
「私は今、多くの金や銀や珍しい宝を持っていて、倉庫に満ち溢れている。
その中の多くは、取っておまえに与えるためのものである。おまえはよく理解しなさい。
私の心の中はこうなのだ。当然この意思を悟るべきである。
理由は何故かというと、いま私とおまえは異なることがない。
くれぐれも用心して、財産をなくすことがないように。」

子は教えと命令を受け、金銀珍宝と収蔵品を知ってはいる。
しかし、ひとつの食べ物すら貰おうとはしない。
住む所も、なお元の所。
卑しい心を、未だ捨てられない。

しばらく経って、父は知る。
子の心が、だんだん通じ、安らかになり、大きな志を成就し、自ら以前の心が卑しかったと知った、と。

臨終の時。父は命じた。
親族、国王、大臣、武士、在家男子を呼んで集めよ――と。

そして宣言した。
「皆さんお聞きください。これはわが子であり、私の所で生まれた子です。
ある町において私を捨てて逃げ出し、さまよい歩いてつらい思いをすること五十年。
その元の名は何某、私の名は何某。
昔、その町で憂いを懐いてたずね捜し求めました。
思いがけなく最近になり、めぐり合うことができたのです。
これこそ実のわが子であり、私がその実の父なのです。
今、私が持っている全ての財産は、この子のものなのです。
以前に出納した所の物は、全てこの子が承知しています。」

この宣言は、名乗りだ。
ただの身分証明ではない。
子の魂が、宝に耐える器へ変わったことを、世界に刻む一撃だ。
一乗とは、こうして“公”になる。

宝蔵は、宣言によって世界へ開かれる

「糞を取り除いた」――弟子たちの自白:小法に満足して、大乗を求めなかった私たち

世尊、このとき困窮している子は、父の言葉を聞いて大変喜んだ。
今までにない思いをして、こう思った。
「私は、もともと心に願い求める所はありませんでしたが、今、この宝の蔵へ自然に至ったというようなものです。」

そして譬喩は、私たち自身の告白へ変わる。

「世尊、大いなる富の長者とは、すなわち如来のことです。
私たちは皆、仏の弟子のようなものです。
如来は常に、私たちを如来の子であるとお説きになります。」

だが私たちは――三つの苦悩のために揺らぎ続けた。
苦苦。壊苦。行苦。
そのために、生まれたり死んだりする中で、激しい苦悩を受け、迷い、戸惑い、無知で、自己の悟りを第一とする教えである小法を楽しみ、執着した。

そして今日、世尊は私たちに考えさせ、
「諸々の教えの無意味な論である糞」を取り除いてくださった。

私たちは努力し、雑念を去り、仏道修行に専心し、煩悩の火を消し、知慧の完成した悟りの境地へ至る過程で――
“一日の糧にふさわしい価値があるもの”を得た。

得た瞬間、心は大いに歓喜し、自ら満足した。
そして思ったのだ。
「仏法の中において勤め、雑念を去り、専心したために得るものが多かった」と。

だが、それは“一日分”だった。
二十年分でも五十年分でもない。
まして宝蔵ではない。
私たちは、そこで止まった。止まってしまった。

世尊は、私たちの心がよくない欲に執着して、小法を願うのを知って、
そのままにされた。
「おまえたちには当然、如来の事物に対する正しい認識や宝蔵の分け前がある」などと、分別されなかった。

それが方便だ。
衆生を導く臨機応変の手だてを用いる智慧によって、如来の知慧を説かれたのに――
私たちは、煩悩の火が消えた境地の“たった一日分の価値”を得ただけで、
「大いに得た」と満足し、この大乗の志を求めなかった。

さらに私たちは、如来の知恵によって菩薩のために開示し演説されたものを、
自ら志し、願うことをしなかった。

理由は明白だ。
仏は、私たちが小法を願っていることを知り、私たちに合わせて説かれた。
しかし私たちは、「私たちが真に仏の弟子であること」を知らなかった。

そして今、私たちはちょうど知った。
世尊は、仏の知恵において物惜しみしない。
私たちは昔からずっと真に仏の弟子であったのに、ただ小法のみを願っていたのだ。

もし私たちに、他の衆生の救済を願う大乗の心があれば、
仏はすなわち私のために、大乗の教えを説かれたのだ。

今、この経典の中で、
一切衆生を乗せて仏の悟りへ運ぶ――一乗の教えを説かれた。

そして昔、菩薩の前で、仏の教えを聞いて一分の悟りを獲得した者が、自分の悟りのみを願うことをそしったりなさいましたが、
実は仏は、衆生の救済を第一とする大乗の教えによって教化していらっしゃったのだ。

私たちは、ようやく分かった。
糞を掃くとは、外の汚れの話ではない。
胸の奥に固まった“卑しさ”と“小ささ”を掃くことだ。
そこから一乗は始まる。

糞=無意味な論。掃く=業をほどく

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■ 主な参照文献

  • 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
    創価学会教学部 編(聖教新聞社)
    ※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用
  • 『法華経(上)』
    坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
    ※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照
  • 『妙法蓮華経 並開結』
    (鳩摩羅什 訳)
    ※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用
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