信解品③(詩偈編)|繰り返しが魂を削る。五十年の放浪と、二十年の糞掃き

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今回は、信解品第四の「詩偈(しげ=韻文)」部分です。散文で語られた長者窮子の譬喩を、摩訶迦葉が改めて詩の形で反復し、深化させます。法華経の「意味」を分かりやすく理解するには、この”繰り返し”が重要です。なぜなら、繰り返しは甘やかしではなく、魂を削る刃だからです。
詩偈では、父の心配(「五欲を楽しんでも、子がいなければ空しい」)、子の恐怖(「殺されるに違いない」)、段階的な方便(糞掃除→二十年→出入り→門外の住まい→最後の宣言)が、一行ずつリズムを刻んで胸を打ちます。そして最後、弟子たちは自白します。「私たちは煩悩のない境地を得て、自分のみの悟り(声聞)だと言われていたのに、実は仏は最上の道を与えようとしていた。だから私たちは今、菩薩のために『この上ない道』を説く」と。
ここで因果応報の構造が完結します。小さく満足した者(業)は、自ら宝を拒む。だが方便によって器が広がれば、同じ者が宝を受け継ぐ資格を得る――それが一乗です。韻文の反復は、読者の心の”癖”を削り続ける仏の戦略そのものです。


目次

「求めていないのに、宝が来た」――喜びの告白が、魂を震わせる

この理由のために、私たちは説く。

本来は、心に願い求めることはなかった。
だが今、教えの王の大宝が、自然にやってきた。
仏の子が得るべきところのものは、皆既にこれを得ることができた。

その時、摩訶迦葉は、重ねてこの意義を述べようとして、仏の徳を賛歌し、詩を説いて言った。

「私たちは今日 仏の教えの声を聞いて
歓喜し躍り上がり 初めての経験を得ました
仏は、仏の教えを聞いて一分の悟りを獲得したものが きっと、仏と成ることができるに違いないと説かれた
この上ない宝を 求めていないのに得ることができました」

言葉は穏やかだ。
だが、その下で鳴っているのは、懺悔の鐘だ。
求めていなかった――それは謙遜ではない。自分の器の狭さを、自分で白状している。

求めぬ宝が降る――それは恩寵か、懺悔の鐘か

幼く知識がない子――五十年の放浪と、父の心配の深さ

「たとえば子供が 幼く知識がなく
父を捨てて逃げ出して 遠くの土地に至った
諸国を巡り歩くこと 五十余年」

五十余年――ここでも、数が刃になる。
一年や二年ではない。五十年という骨身に染みた時間が、放浪の重さを測る。

「その父は心配して 四方を尋ね探した
子供を探し疲れて ある町に留まった
家を建てて 財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲の五欲を自ら楽しんだ」

ここで、父は楽しむ。
だが楽しみは、空しさを隠す仮面だ。
次の行が、それを突く。

「その家は富んで 諸々の金銀
シャコガイ、メノウ 真珠、瑠璃が沢山あり
像、馬、牛、羊 輿や車
田の仕事をする召使いの少年 雇い人が多くいた
金銭を貸して利息を得ること他国に及んでいた
商人やお得意の客で いたるところがいっぱいでした
千万億の衆が 周りを右回りに歩く作法で礼拝し恭しく敬い
常に王者に 深く愛されることを得た
臣下や豪族に 皆共に敬われ
いろいろな外的な関係があるために 往来する者が多かった
富豪であるさまはこのようであり 大きな勢力を持っていた」

――ここまで豊かで、ここまで尊ばれても。

「しかし年老いてきたために 後継ぎの子を悩んでいた
朝早くから夜遅くまで思い悩み 死の時がまさに近づいてきた
愚かな子が私を捨てて 五十余年が過ぎた
倉庫にあるいろいろな物 これをどのようにするべきか」

財は満ちても、心は空しい。
これが、父の業だ。
因果応報は、富める者にも容赦しない。

富と敬意に満ちても、魂の空白は埋まらない

食べ物なく、疥癬の皮膚病――貧窮する子の身体が語る、業の重さ

「そのときに困窮している子供は 衣食を求め探し
町から町へ 国から国へ放浪していた
あるときは得るものがあり あるときは得るものがなかった
食べ物がなくて飢え疲れてやせ衰え 身体に疥癬虫の寄生によって起こる伝染性の皮膚病ができた」

疥癬。
これは比喩ではなく、具体だ。法華経は、ここで”生々しさ”を捨てない。
痒み。膿。剥がれる皮膚。
業は、肉体に刻まれる。

「だんだんと年月を経て 父の住む城へたどり着いた
雇われ転々として 父の家に偶然にやって来た」

偶然――だが、因果に偶然はない。
五十年の放浪が、ここへ導いた。


獅子の座と恐怖――「殺される」と確信する瞬間、悶絶の再現

「その時に長者は その門の内側において
大きな宝石で飾ったたれぎぬをたらして 獅子の座に座り
家来は周りを右回りに歩く作法で礼拝し 諸々の人がそばに仕えて護衛していた
ある者は 金銀宝物を計算し
財産を出し入れし 書き物をしたりする者がいた」

その光景は、救いではない。威圧だ。

「困窮している子供は父の 勢力があり高貴で気高いのを見て
この方は国王か または国王と同じような方かと思った
驚き恐れて自ら心配になり なぜここへ来たのだろうかと
ひそかに自分で思った 私がここに長居すれば
あるいは危難が身に迫り 強制的に働かさせられるだろう
このように思って 走り去った
貧しい里をたずねて 行ってやとわれて働こうと思った」

ここで、心の業が子を縛る。
威厳が近すぎると、救いすら恐怖に見える。

「長者はこのときに 獅子の座に座っていた
遠くからその子を見て 黙ってこれを知った
すぐに使者に命令し 追いかけて捉えて連れてこさせた
困窮している子は驚き叫び 迷い悶えて地に倒れた
この人は私を捉え きっと殺されるに違いない
なぜ衣食によって 私をここへ来させたのか」

悶絶――ここで詩は、肉体の震えまで刻む。
因果の暗黒面が、ここにある。救いを、自分で地獄に変える。

恐怖が救いを殺す――業は心の内側で完結する

片目で見識が低く――方便は「下へ降りる」ことで成立する

「長者は子供の心性が愚かで、一切の道理に暗く心が狭く劣っているので、
わたしの言葉を信じず 私が父であると言っても信じないことを知って
目的を達するための便宜上の手段により さらに他人の
片目で見識が低く 威厳と人徳がない物を使いに送った」

片目――これは侮辱ではない。リアルな配慮だ。
完璧な者を送れば、子はまた逃げる。
だから、”同じ高さの者”を送る。方便は、ここまで具体的だ。

「おまえはあの子に話して伝えなさい きっと雇うはずだ
諸々の糞や汚いものを掃除しなさい 倍の給料をおまえに与えようと
困窮している子はこれを聞いて 喜んでついてきて
糞や汚いものを掃除し 諸々の建物を掃除した」

糞掃除――再び、ここから始まる。
一乗への道は、糞の匂いを通過しなければ開かない。

「長者は窓から 常にその子を見て
その子が愚かで劣っていて 好んでつまらない仕事をしていることを考えた
このとき長者は、粗末な垢まみれの服を着て、
糞を掃除する道具を持って 子供のところへ行って
人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって近づき 話をしてよく働かせた」

父は、また降りる。
獅子の座を離れ、糞の道具を持つ。
ここに、如来の覚悟がある。

降りる慈悲――獅子の座を捨て、糞の道具を握る

二十年の糞掃除――門外のかや屋根、そして最後の宣言

「既におまえの賃金を上げた そして、足に油を塗り
飲み食いに満足させ むしろの敷物で暖かくしてあげよう
このようにあえていさめる言葉を述べた 『おまえはよく慎み励んで働きなさい』
また逆に優しい言葉をかけ 『私の子供のようにしなさい』」

ここで父は、二つの声を使う。
いさめと、優しさ。
どちらも本気だ。

「長者は知恵があり だんだんと出入りさせた
二十年がたって 家事を執り行わせ
それに金銀 真珠、水晶、諸々の物の
出し入れを示し みな教えたけれども
なお、門外に住み かやで屋根をふいた粗末で小さい家に寝泊りして
自ら貧しいと思った 私にはこれらの物は無いと」

二十年――そして門外。
ここに、業の頑固さがある。
外側は変わっても、心の住まいが変わらない。

「父は子供の心が だんだんと広くなったのを知り
財物を与えようと願い そして親族
国王、大臣 武士、在家男子を集めて
この皆の前で これはわが子ですと言った」

公の場での宣言――これは、もう逃げ道を許さない。
世界が証人になる。

「私を捨ててよそへ行き 五十歳になり
子に会えてから 既に二十年
昔ある町において 子の子を失い
めぐり歩き捜し求めて ついにここに至り
私が持っている 建物や使用人
ことごとく全てこの子に与える その持てる物を好きなようにしなさい」

相続の完了。
一乗とは、ここで完結する。

「子は思った。昔は貧しく 志は下品で卑しかった
今は父のところにおいて 多くの珍宝や
ならびに建物 全ての財物を得た
非常に喜んで 今までに一度もなかったことを得たようである」

喜び――だがこの喜びは、懺悔の涙でもある。
卑しかった、と自分で言う。それが、器の広がりの証拠だ。

懺悔と喜びが、同時に炸裂する

仏もまたこのようなのです――私たちは声聞でも、最上の道を説く者になる

「仏もまたこのようなのです 私が自分だけの幸せを願うのをお知りになって
未だ全てを説明して おまえたち最高の悟りを開きなさいとは言わない
しかし私たちは 諸々の煩悩のない境地を得て
自分のみの悟りをひらく 声聞という弟子であると説かれた」

ここで、譬喩が自己言及へ戻る。
長者は如来、子は私たち。
私たちは「声聞(小乗)」だと言われていた――それも方便だった。

「仏が私たちに説かれた 最上の道
これを修習するものは きっと成仏することができるに違いないと説きなさいと
私は仏の教えを受けて 偉大な悟りを求める修行者のために
諸々の因縁 種々のたとえ話
布施として優しい言葉をかけることを以て この上ない道を説くのです」

ここで完結する。
私たちは、受け取る側から、説く側へ変わった。
宝を受け継いだ者は、宝を配る責任を負う。
それが、一乗の終着点だ。

■ 主な参照文献

  • 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
    創価学会教学部 編(聖教新聞社)
    ※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用
  • 『法華経(上)』
    坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
    ※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照
  • 『妙法蓮華経 並開結』
    (鳩摩羅什 訳)
    ※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用
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