今回は、信解品第四の最後となる結語部分です。弟子たちは、自分たちが「秘蔵の教えを、私のためには説かれなかった」と告白します。法華経の「意味」を分かりやすく理解するには、この”気づき”が核心です。なぜなら、教えは常に目の前にあったのに、受け取る器が狭かったために”自分のもの”にならなかったからです。
ここで語られるのは、空(すべては実体がなく、生滅もなく、煩悩もなく因果もなく、大小もない)という認識に「喜びも楽しみも生じなかった」という懺悔です。空を知的に理解しても、それで満足し、仏国土を清め衆生を導く喜びへ進まなかった――それが小法(声聞)の限界です。そして仏は、その限界を知りながら、方便によって段階的に導き、最後に一乗(すべてが仏道へ運ばれる教え)を開示しました。
結語では、弟子たちが「仏の恩は報いきれない」と繰り返し、同時に「諸仏は非常に稀であり、大神通力を持ち、下等な者にも忍んで合わせてくださる」と讃嘆します。因果応報の構造は、ここで完成します。自分の器を知り、恩を知り、そして一乗の道を歩むと誓う――それが、信解品第四の終着点です。
「秘蔵の教えは、私のためには説かれなかった」――器の狭さが、宝を遠ざける
諸々の仏の弟子達は、私に従って教えを聞き、
日夜、対象を心に浮かべてよく考え、雑念を去り仏道修行に専心し習って身につける。
その時に諸々の仏は、これに対して未来に最高のさとりを得るであろうことを予言し約束するのです。
おまえは来世において、きっと仏となるに違いない――と。
だが、と私は言う。
全ての諸々の仏の秘蔵の教えは、
ただ悟りを求める修行者(菩薩)のために、その真実であることを述べて、
私のために、その真に最も大切な部分を説くのではない。
――ここに、痛みがある。
秘蔵の教えは、常に目の前にあった。
だが「私のため」には語られなかった。
なぜなら、私が求めなかったからだ。
私の器が、狭かったからだ。
あの困窮している子が、その父に近づくことができて、
いろいろなものを知ることができたが、心から願い求めることはしなかったように――
私たちは、仏法の宝蔵を説いたとしても、
自らその志や願いがない。またまたこれと同じなのです。

「空」を知っても、喜びは生じない――小法の冷たさ
私たちの心の中の煩悩や苦悩の消滅を、自ら十分に達成できたと思って、
ただこの事だけを知り、さらに他の事は何も知らない。
私たちがもし、仏が国土を清め、
生命のあるものすべてを教え導き望ましい方向に進ませることを聞いても、大きな喜びはありません。
理由は何故かというと――
全てのこの世に存在する有形や無形の一切のものは、
ことごとく実体がなくその本性は空であり、生じもしないし滅びもしない。
大きいものもなければ小さいものもない。煩悩もなければ因果の関係もない生滅変化しない永遠絶対である。
このように対象を心に浮かべてよく考えて――
喜びや楽しみを生ずることはない。
ここで、空の認識が、冷たい檻になる。
空は正しい。だが、空だけで止まれば、それは「自分だけの悟り」に閉じこもる業(ごう)だ。
私たちは煩悩のため悟りが開けず生死の境界にさまよっているが、仏の物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力においては、
むさぼり求める心もなく執着もなく、また望み願うこともないのです。
しかも自ら教えにおいて、これが物事の最後に行き着くところであると思っているのです。
――ここが、業の完成だ。
「最後に行き着くところ」と思った瞬間、道は閉じる。
因果応報は、思い込みに対しても容赦しない。

「煩悩を絶った境地」に留まった――だが、それは仏道の始まりに過ぎない
私たちは煩悩のため悟りが開けず生死の境界にさまよっているが、
もろもろの事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないといったあり方を説く教えをならって身につけることにより、
全ての衆生が生まれまた死んで往来する世界の苦悩に嘆き悲しむことから抜け出すことができ、
煩悩を絶った心の生命の拠り所としての肉体に留まり、
心は煩悩を断ったが、いまだ生命のよりどころとして肉体があっても煩悩の火を消して、知慧の完成した悟りの境地に達したのです。
仏が人々を教え導いて仏道に入らせることは、仏道を修行して悟りを開くことであり虚しくはないのです。
つまり既に、仏の恩に報いることを得たのです。
私たちは、諸々の仏の弟子のために
悟りを求める修行者の教えを説いて、それによって仏道を求めさせようとしても、
しかもこの教えを、長い間切望することはなかった。
仏の教えを説いて人々を仏道に入らせる僧が俗世間を離れるのは、自分の心を見つめる理由のためである。
最初に人々に仏の道を説いて勧めるときに、実際の利益や効用があるとはお説きにならない。
――ここで、方便の段階が再度確認される。
仏は、最初から「利益」を説かない。
なぜなら、器が狭い者は、利益を誤解するからだ。
富んでいる長者が、子供の志が劣っているのを知って、
衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きによって、その心を和らげてから制御し形作って、
その後に、全ての財宝を与えたのと同じように――
仏もまたこの様なのです。めったにないことを現じたのです。
自己の悟りを第一に願う者であるとお知りになって、
衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きによって、
その心を整えて制し、その後で利他の精神による衆生の救済という大智を教えたのです。

「計り知れない宝を得た」――私は今、真に声聞となった
私たちは今日、今までになかったことを経験しました。
以前またこうしてほしいと望んでなかったことを、今自ずから得ることができたのは、
あの困窮した子が、計り知れない宝を得たのと同じことです。
世尊、私は今、道を得て修行によって得た成果を得て、
すべての迷いを残らず離れ去る教えにおいて、煩悩、私欲、罪悪などがなく心の清らかな眼を得ることができました。
私たちは煩悩のため悟りが開けず生死の境界にさまよう中で、仏によって制せられた、清浄で正しい戒を守って、
始めて今日において、その行いの結果として現世で受ける果報を得たのです。
教えの王の教えの中に、長い間仏道の修行を修めて、
今、すべての迷いを残らず離れ去り、この上ない仏道修行によって得た悟りの境地を得たのです。
私たちは今、真に自己の悟りのみを求める修行者である声聞となったのです。
仏道の声によって、全てを聞かせましょう。
私たちは今、真に自分だけの悟りを開いた阿羅漢である。
諸々の世間、天上界に住む者、魔王、梵天において、
あまねくその中において、きっと供養を受けるでしょう。
――ここで、弟子たちの立場が完結する。
声聞。阿羅漢。
だが、それは終着点ではない。
一乗の道において、声聞も阿羅漢も、「仏道の声」を伝える者になる。

「仏の恩は報いきれない」――諸仏は忍んで、下等な者にも合わせてくださる
世尊は深い恩恵がおありになり、めったにない事によって、
憐れみ人を教え導き望ましい方向に進ませて、私たちを利益されるのです。
数えられないほどの長い時間においても、誰もこれによく報いる者はいないのです。
手足を差し出し、頭の上に押し頂き礼をして敬い、
全てをささげて供養したとしても、全てに報いることはできないのです。
若しくはうやうやしく頭上にいただき、両肩に背負って、
ガンジス川の砂の数ほど長い時間において、心を尽くして恭しく敬い、
また、美しい食膳を供し、数限りない宝で飾った衣服、
および諸々の寝るときに用いる道具、いろいろなせんじ薬、
南インドの牛頭山に産する栴檀(せんだん)から作った香料、および諸々の珍しい宝、
これを以て仏塔や廟を建て、宝石で飾った衣を地面に敷き、
このような事を、全て用いて供養し、
ガンジス川の砂の数ほどしても、また報いることはできないのです。
諸々の仏は非常に稀であり、計り知れないほど多く計り知れないほど大きな、
不可思議な大神通力を持っていらっしゃいます。
煩悩もなければ因果の関係もなく、諸々の教えの王なのです。
非常に道義的に下等であっても、そのことを忍んでいらっしゃるのです。
――ここが、仏の覚悟だ。
下等な者にも忍ぶ。
それは我慢ではない。方便だ。
相手の器に合わせるために、自分を下げる。
それが、慈悲の戦術だ。
教えを理解していない凡夫を外観から見破って、その程度にふさわしく合わせてそのためにお説きになるのです。
諸仏は教えにおいて、最も望むとおりに物事をなしうるのです。
諸々の命のあるものすべての、いろいろな欲望や願い、
およびその志の力をお知りになって、許容する能力にしたがって、
数え切れないほどの比喩を用いて、そしてそのために教えをお説きになるのです。
諸々の衆生の、前世からの因縁のよい報いを招くもとになる行為にしたがって、
また精神が十分に成長し発達したものや、精神などが十分に成長し発達していないものを知り尽くして、
いろいろに量を加減し、もろもろの事理を思量し識別し知り尽くして、
一切衆生を乗せて仏の悟りへと運ぶ一乗の教えの道において、
その場その場で、相手に応じて随時よろしく、衆生を悟りに導く三種の教法をお説きになったのです。
――ここで、一乗の構造が完成する。
三乗(声聞・縁覚・菩薩)は、方便として説かれた。
だが最終的には、すべてが一乗へ回収される。
それが、仏の意図だった。
そして私たちは、今、それを知った。




■ 主な参照文献
- 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
創価学会教学部 編(聖教新聞社)
※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用 - 『法華経(上)』
坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照 - 『妙法蓮華経 並開結』
(鳩摩羅什 訳)
※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用
