法華経「方便品(ほうべんぽん)第二」の解説、第3回。
いよいよ物語は、法華経の核心へと踏み込みます。釈尊(ブッダ)は、これまで説いてきた「三つの道(声聞・縁覚・菩薩)」はすべて仮の姿であり、真実の道は「一仏乗(いちぶつじょう)」というたった一つの道しかないと衝撃の宣言をします。仏がいかなる目的でこの世に現れたのか、その真意である『一大事因縁(いちだいじいんねん)』について紐解きます。
仏の沈黙と、舎利弗(しゃりほつ)の直感
仏は、まだ語らなかった。
だが、その沈黙は、序品の沈黙とは違っていた。
待つ沈黙ではない。
すでに踏み出している沈黙だった。
会座の空気が、変わった。
それを最初に感じ取ったのは、舎利弗だった。
智慧第一と呼ばれる男は、
言葉よりも早く、気配を読む。
――これは、これまでとは違う。
仏がこれから語ろうとしているものは、
比丘たちが慣れ親しんできた教えの続きではない。
積み重ねの延長でもない。
切り替わる。
その直感に、舎利弗は息を詰めた。

限界の宣告:仏の智慧は「そのまま」では届かない
やがて、仏は口を開いた。
静かだった。
だが、その声は、会座のすべてを逃がさなかった。
「舎利弗よ」
名を呼ばれた瞬間、
舎利弗の背筋が、わずかに伸びる。
「諸仏の智慧は、甚だ深く、量りがたい」
仏は、そう言った。
深い。
測れない。
理解できない。
それは、否定ではなかった。
限界の宣告だった。
仏の智慧は、
声聞にも、縁覚にも、
そのままでは届かない。
なぜか。
仏は続ける。
「諸仏は、無数の方便を用いて、
衆生を導いてきた」
方便。
仮の道。
段階の道。
人は、いきなり真実を受け取れない。
受け取れば、壊れる。
だから仏は、
欲に応じ、力に応じ、理解に応じて、
さまざまな言葉を使ってきた。
三つの道は一つだった:衝撃の「一仏乗」宣言
三乗――
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗。
それは、嘘ではない。
だが、最終ではない。
仏は、ここで決定的なことを言う。
「舎利弗よ。
実は、仏の説くところに、
二つの乗も、三つの乗もない」
会座が、息を止める。
これは否定だった。
自分たちが歩いてきた道そのものへの。
仏は、さらに言葉を重ねる。
「ただ一つ、
一仏乗があるのみである」

三つに分かれているように見えた道は、
最初から、一つだった。
悟りを目指す道は、
種類などなかった。
すべての衆生は、仏になる。
そのための道しか、
仏は説いていない。
この瞬間、
これまでの教えの地図が、
音を立てずに書き換えられた。
声聞たちは、動揺した。
縁覚たちは、言葉を失った。
自分たちは、
途中の道を、
最終地点だと思っていたのではないか。
仏が出現した唯一の理由「一大事因縁(いちだいじいんねん)」
仏は、そこで、はっきりと言い切る。
「諸仏が世に出現するのは、
ただ一大事因縁のためである」
一大事因縁。
それは、
仏が悟りを開くためではない。
世界を飾るためでもない。
「衆生に、
仏の智慧を開かせ、
示し、
悟らせ、
入らせるためである」
開示悟入(かいじごにゅう):閉じられた扉を開く
開示悟入。
閉じられていたものを、開く。
見えなかったものを、示す。
理解させ、
そこに入らせる。
それが、
仏がこの世に現れる理由だった。
舎利弗は、震えた。
これは、称賛ではない。
これは、選別でもない。
逃げ道を塞ぐ宣言だった。

すべての方便を捨てて「無上道」を説く
仏は、続ける。
「もし、仏が、
衆生をして仏の智慧に入らせないなら、
仏は世に出現しない」
ここで、
方便という言葉の意味が、
反転する。
方便は、
仮の教えだ。
だがそれは、
真実を隠すためではない。
必ず真実へ導くためにある。
仏は、はっきり言う。
「私は、
今、すべての方便を捨てて、
ただ、無上道を説く」
捨てる。
否定するのではない。
役割を終わらせる。
段階は、終わった。
準備は、終わった。
ここから先は、
遠慮はない。
仏は、
一切衆生に向かって、
同じ地平を開いた。
仏と、衆生のあいだに、
本質的な差はない。
違いがあるとすれば、
それは、まだ開かれていないだけだ。
仏は、
それを開くために、
ここにいる。
書き換えられた世界の前提
このとき、
会座にいた者たちは、
はっきりと理解した。
――これは、
――もはや後戻りできない教えだ。
方便品は、
ここで、完全に向きを変えた。
次に語られるものは、
比喩ではない。
準備でもない。
断言だ。



■ 主な参照文献
- 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
創価学会教学部 編(聖教新聞社)
※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用 - 『法華経(上)』
坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照 - 『妙法蓮華経 並開結』
(鳩摩羅什 訳)
※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用
