法華経「薬草喩品第五」②〈結〉——一味の慈雨が分かつ五つの道

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法華経「薬草喩品第五」後半では、如来が大雲となって一味の雨を降らせる壮大な譬えが展開されます。同じ教えを受けながら、衆生の業と器量により小薬草から大樹まで五段階の成長を遂げる様子を通して、一乗の真理と方便の深さ、そして最終的な菩薩道への転換が描かれます。


目次

大雲の宣言——「私に匹敵する者はいない」

大聖主であり世の中で最も尊い方は、諸々の天人や人や、一切の生命のあるものすべての中において、この言葉を宣言された。

「私は如来である。両足を具えている者の中で最も尊い者である。世の中に出現する様は、まるで大雲の様である」

その声は、静寂を破る雷鳴のように響いた。天人も人間も阿修羅も、その前では等しく一つの命にすぎない。

「全ての、乾ききった生命のあるものすべてを潤いで満たして、皆を苦悩から解放して、安泰で穏やかな楽しみ、世の中の楽しみ、および煩悩の火を消して知慧の完成した悟りの境地の楽しみを得させる」

諸々の天人や人々に向かって、如来はさらに告げる。

「一心によく聞け。皆ここへ来て、この上なく尊い者を観よ。私は世の中で最も尊い者である。私に匹敵する者はいない。生命のあるものすべてを安泰で穏やかにするために、その理由のために世に出現して、多くの人々のために、天上の神々の飲む忉利天にある甘い霊液のような清らかな教えを説く」

忉利天の甘露——神々でさえ渇望する霊液に譬えられた教えには、甘さの裏に業を焼き切る厳しさが潜んでいる。

「その教えは、同じ一つの味であり、煩悩の束縛から解き放ち、自由の境地に到達させ、煩悩の火を消して、知慧の完成した悟りの境地へ至ることである。一つの言うに言われぬ美しい音声によって、その意義を演説する。常にすべての人間の平等な救済と成仏を重視する大乗の為に、物事が生じる直接の力と、それを助ける間接の条件を作るのである」

大雲となって現れた如来——天人も人間も包む威厳

平等の慈雨——愛憎なき眼差し

「私が全てを観ることは、広く皆平等であり、あれやこれやと、愛することや憎むことの心があったりしない。私には欲望にまかせて執着することや貪ることはなく、限界や妨げもない。常に全てのために、平等に教えを説く。一人のためにするのと同じように、多くの人々にもまたそれと同じである」

如来には好悪も利害もない。この徹底した平等こそ、漢の矜持を超えた覚悟だった。

「常に教えを演説して、他の事などしない。去り、来たり、座り、立ち、決して疲れたり厭になったりすることはない。世の中に十分に補い満たすさまは、雨が広く潤すようである」

貴いものと卑しい者、優れたものと劣った者、戒を堅く守る者と、戒をやぶる者、規律にかなった起居動作を身に付けた者、そして身に付けていない者、四諦の道理を正しくとらえた見解を持つ者、因果の道理を無視する誤った考え方を持つ者、生まれつき賢い者、生まれつき頭の働きがにぶい者に、等しく教えの雨を降らして、善行を修めるのに積極的でない心の状態になったりしない。

雨は選ばない。奈落に沈む者にも、玉座に座る者にも、等しく降り注ぐ。それが如来の覚悟だ。

平等の雨——貴賤を選ばず降り注ぐ慈悲

三種の薬草——業に応じた成長

「全ての生命のあるもので、私の教えを聞く者は、それぞれの持つ能力にしたがって、異なった修業の段階に留まる」

如来は、衆生の成長を五つの段階で語った。

「或いは人、天人、転輪聖王、梵天王・帝釈天・魔王などの諸王に留まる、これは小の薬草である」

小薬草——世俗の権威や天界の楽しみに留まる者たち。彼らは善業を積み、より良い世界へ生まれ変わるが、まだ悟りには至らない。

「すべての迷いを残らず離れ去る教えを知って、よく煩悩の火が消された涅槃を得て、仏や菩薩に備わる六種の超人的な能力を起こし、自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、自他の未来世のあり方を自由に知る天眼明、煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明を得て、一人山林に住み、常に思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行をして、さまざまな事象を縁として自らの力で一分の悟りを得た境涯である縁覚の証を得る、これは中の薬草である」

中薬草——声聞や縁覚の境地。彼らは自己の悟りを得て涅槃に至るが、まだ他者を救う大乗の道には踏み出していない。

「世尊の場所を求めて、私はきっと仏になるであろうと、雑念を去り精神を集中して仏道修行に専心する、これは上の薬草である」

上薬草——「私はきっと仏になる」と誓う魂の叫び。自己の悟りに満足せず、仏の境地を目指して血がたぎる思いで歩み始める者たち。

三種の薬草——それぞれの段階で成長する魂

二種の樹木と真実の開示——「声聞の道は終着点ではない」

「また諸々の仏の弟子が、心を仏道に専心して、常に慈悲を修行し、自分自身で仏と成ることを知る、心が定まっていて疑いなしと知る、これを小樹と呼ぶ」

小樹——自らが仏になることを確信し、慈悲を実践する菩薩たち。迷いなく仏道を歩む者の境地だ。

「どんなことも自由自在になし得る計り知れない不思議な力に留まり、すでに得た境地から後戻りせず教えを広め、無量億、百千の生命のあるものすべてを悟りの境地に導く、このような悟りを求める菩薩を、名付けて大樹という」

大樹——無数の衆生を救い、教えを広める大菩薩たち。その幹は太く、枝は四方八方に伸び、無量億・百千の命がその木陰に身を寄せる。自分一人の涅槃を拒み、あえて衆生を背負う道を選んだ者の名が菩薩であり、大樹だった。

「仏は平等に説き、同じ一つの味の雨のようである。生命のあるものすべての生まれつきの性質に従って、受け取るところが同じでないことは、彼の草木の、受けとるものがそれぞれ異なるのと同じである。仏はこの例えによって、人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段によって教え諭す。種々の言葉使いによって、一つの教えを演説しても、仏の知恵においては、海の一滴のようである」

どれほど巧みな譬えや言葉を並べても、それは仏智の「海の一滴」にすぎない。だが、その一滴が、乾いた魂には十分な慈雨となる。

小樹と大樹——菩薩の幹に寄り添う無量の命

「私は教えの雨を降らして、世の中にそそぎ満たして、同じ一つの味の教えを、能力に従って修行することは、彼の草や林、薬草や諸々の樹木が、その大小にしたがって、段々と増えて茂ってゆくようである」

「諸仏の教えは、常に同じ一つの味をもって、諸々の世の中に、広く十分に備わっていくことを得させる。徐々に修行して、皆修行で得た成果としての位を得て、教えを聞く者や自己の悟りを得た者が、山林に住んで、煩悩を絶った心の生命の拠り所としての最後の肉体に留まって、教えを聞くことによって得た悟りの成果を得る、これを薬草が、それぞれ増長することを得たと名付ける」

「もし諸々の悟りを求める修行者が、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力があり意思がしっかりしているなら、欲界・色界・無色界を心でよく悟り、生けるもの全てが区別なく仏の悟りに到達する最上の大乘を求める、これを小樹が、しかも増えて成長したと名付ける」

「また精神を集中して無我の境地に入り、神通力を得て、あらゆる存在はすべて実体が無く空である教えを聞いて、心は大いに喜び、無数の光を放って、諸々の生命のあるものすべてを悟りへ導くことがあれば、これを大樹が、しかも増えて成長したと名付ける」

「このように迦葉よ、仏の説く教えは、例えば大雲が、同じ一つの味の雨によって、人や花を潤して、それぞれに異なった実を成らせることができるようなものだ」

「迦葉よ、当然、知るべきである。諸々の因縁と、種々の譬喩によって、仏は道を教え諭す。これは私の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段である。諸々の仏もまたこれと同じである」

そして、如来は闇を切り裂くように、弟子たちへ真実を突きつける。

「今、おまえたちのために、真実を説く。諸々の自己の悟りのみを求める声聞衆は、皆、生死の迷いを超越した悟りの境地へ至ることはできない。おまえたちの修行すべきことは、この悟りを求める菩薩の道である。徐々に修行を積み、煩悩を断ち、無上の悟りを悉く開くに違いない」

衝撃的な宣告だった。今まで悟りだと思っていた場所は、終着点ではない。自己満足の安らぎを捨て、荒野へ出よ。菩薩として歩み、必ず仏となれ。それが、真の願いなのだ。

声聞から菩薩へ——真実を告げる刃の一言

■ 主な参照文献

  • 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
    創価学会教学部 編(聖教新聞社)
    ※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用
  • 『法華経(上)』
    坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
    ※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照
  • 『妙法蓮華経 並開結』
    (鳩摩羅什 訳)
    ※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用
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