【現代語訳で読む】妙法蓮華経(法華経)譬喩品第三:有名な「三車火宅」の譬喩と成仏の予言譬喩品第三|舎利弗の歓喜と華光如来への予言

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はじめに
法華経の第三章にあたる「譬喩品(ひゆほん)第三」は、仏の真意を聞いて歓喜した一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)に対し、釈尊が「未来に仏になる」という予言を与える感動的な場面から始まります。そして、理解が及ばない他の弟子たちのために、法華経の中でも最も有名な「三車火宅(さんしゃかたく)の譬喩」という物語を用いて、仏の深い慈悲と巧みな導き(方便)の真意を解き明かします。
非常に長くドラマチックなこの章の全文を、現代語訳でお届けします。

目次

舎利弗の歓喜と深い後悔

そのときに舎利弗は、躍り上がって喜び、立ち上がって合掌し、世尊(お釈迦様)のお顔を仰ぎ見て言いました。

「今、世尊に従ってこの教えの声を聞き、心が躍り、今までに経験したことのないような思いを懐いております。
理由は何故かと言いますと、私は昔、仏に従いこのような仏法の教えを聞き、諸々の悟りを求める修行者が予言によって仏になるのを見ました。しかし私たちはそのようにはならなかったので、自ら如来の計り知れない事物に対する正しい認識を失ってしまったと感じて、非常に悲しく思っておりました。

世尊、私は常に一人、山や林の中の樹木の下へ行き、座禅をしたり歩いたりして、このようなことを考えておりました。
『私たちもまた同じくすべての存在や現象の真の本性を理解しているのに、なぜ如来は、自己の悟りを第一とする小乗の教えによって、迷い苦しんでいる人々を救って悟りの境地に導こうとされるのか』と。
これは私たちの過ちであり、世尊の過ちではありません。


理由は何故かというと、もしも私たちが悟りを成就するための手がかりとなる教えを説いてくださることを待っていたならば、必ず利他の精神によって衆生の救済を説く大乗の教えによって、悟りを得ることができたでしょう。しかし私たちは、相手に応じてわかりやすく説く『方便』という方法を用いられたのだと解らずに、初めに説かれた仏法を聞いて偶然にも教えを受け入れ、考えた結果、確信を得てしまっていたのです。

世尊、私は昔からずっと、昼も夜も一日中このことで自らを責めていました。
しかし今日、今まで一度も聴いたことがなかった教えを聞いて諸々の疑惑をなくし、身も心も安らかになり快く穏やかになりました。今日、このように自覚しました。真にこれこそ仏の弟子です。仏の口より生まれ、教化より生まれて、仏の教えの分け前を得ることができました」

そのときに舎利弗は、重ねてこの意味を述べようとして、詩を説いて言いました。

「私はこの説法のお声を聞き、今までに一度もない経験をして、心に大きな喜びを懐き、疑いは既に無くなりました。昔からずっと仏の教えを受けているので、利他の精神によって衆生の救済を説く大乗の教えを失うことはありません。仏のお声は不思議で、よく衆生の苦悩を取り除かれます。私たちは既に身から自然に漏れてくる煩悩が衰えましたが、聞いてさらにまた苦悩を取り除かれました。

私が山や谷で暮らし、あるいは林の樹木の下にあって、座ったり歩き回ったりして、常にこのことを思い考え、嘆いて深く自分を責めました。『どうして自らを欺いたのだろうか。私たちもまた仏の弟子であり、同じようにすべての迷いを残らず離れ去ったけれども、未来においてこの上なく尊い道を説くことはできないのだ。金色の皮膚の色と三十二の仏の相、仏が持つ十の力や諸々の解脱、これらは同じく共に一法である無相の中にあるが、この事を得ていない。八十種の優れた特徴、仏のみに具わっている十八種のすぐれた特質、このような現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を、私は既に失ってしまった』と。

私が一人歩き回っている時に、仏が大衆の中にあって、名声が十方に満ち、広く衆生の願いをかなえられているのを見て、自らこの利を失ったと考え、わたし自身自分で自分をだましていたと思いました。私は常に日夜に、毎日このことを思い考えて、それにより世尊に『失ってしまったのか失わずにいるのか』と問いたいと思いました。
私が常に世尊を見奉りますと、諸々の悟りを求める修行者を称賛なさっていらっしゃいます。これによって日夜このようなことを思ったのです。
今、仏のお声を聞いておりますと、相手に合わせて仏法をお説きになっていらっしゃいます。すべての迷いを残らず離れ去ることをあれこれ思い図ることは難しく、そのために人々をして真理を教えてくれる場所へと導くのです。

私は以前、誤った見解にこだわり、諸々のバラモンの師となりました。世尊が私の心を知って、誤った見解を抜き取り、煩悩の火が消された状態の安らぎをお説きになりました。私は全て残らず誤った見解を取り去り、諸々の事物は因縁によって仮に和合して存在しているのであって固定的な実体はないという『空の教え』により確証を得ました。その時に心が自ら『生死の迷いを超越した悟りの境地に至ることができた』と言いました。しかし、今すなわち自覚しました。これ(空の教え)は真実の生死の迷いを超越した悟りの境地ではないと。
もし仏になることができるときには、三十二の仏にのみ現れる人相を持ち、天人や人間や夜叉や龍神らは恭しく敬うでしょう。この時すなわち『長い間かかり苦悩を滅ぼしつくして余すところなし』と言うでしょう。

仏が大衆の中において、私がきっと仏となるであろうとお説きになった、このような説法を聞いて、疑いはことごとく既に取り除かれました。
初め仏の説かれているのを聞いて、心の中で大いに驚き『今にも悪魔が仏と偽って、私の心を悩まし混乱させようとするのではないか』と疑いました。しかし仏は種々の外的な原因と譬喩を用いて巧みに説法なさったので、その心が安らかな様子は海のようであり、わたしは聞いて疑いが無くなりました。


仏のお説きになったような過去の世の、数限りない生死の迷いを超越した悟りの境地を開かれた仏も、相手に応じてわかりやすく説く方法を用いて、また皆この教えをお説きになりました。現在や未来の仏、その数は数えることができませんが、また衆生を教え導き悟りに近づけるための巧みな諸々の方法をもって、このような教えを演説なさるでしょう。

今の世尊も、お生まれになり出家し、道を得て教えを説かれるまで、また衆生を教え導き悟りに近づけるための巧みな方法を用いてお説きになられました。世尊は真実の道を説かれますが、人の命や善根を断つ悪魔はこのようなことはしません。これをもって私は知りました。これは悪魔が仏と偽っているのではないと。私は疑いという網に陥ったために、これは悪魔のなせる業であると思ったのです。


仏の柔軟な声は、深遠ではっきりととらえられないほど細かく複雑です。清らかな教えをよどみなく演説なさるのを聴いて、私の心は大いに歓喜し、疑いや後悔は既になくなり、真実の智慧の中に留まっています。私はきっと仏となり、天人や人間に尊敬されるようになり、この上ない教えを説き、諸々の悟りを求める修行者を教化するでしょう」

舎利弗への成仏の予言(華光如来)

そのときに仏は、舎利弗に告げられました。

「私は今、天人、人間、僧となって仏の教えを修行する者、祭式と教育を独占する特権階級の婆羅門たちの大衆の中において説く。
私は昔、二万億の仏の所において、この上ない優れた道のために常におまえを教化し、おまえは、また煩悩のため悟りが開けず生死の境界にさまよう間に、私に従って学んでいた。私は巧みな方法を用いておまえを導いたために、私の教えの中に生まれてきたのだ。

舎利弗よ、私は昔おまえに仏道をこころざし、願うようにさせた。おまえは今全てを忘れて、そして自分からすでに煩悩を消し去ったと思った。
私は今、過去の記憶へ返り、おまえに本来願った道を絶えず忘れないようにさせるために、諸々の自己の悟りのみを求める修行者のためにこの大乗経の『妙法蓮華経(悟りを求める修行者を教える法、仏が心にかけられて守られるものと名付ける教え)』を説く。

舎利弗よ、おまえは未来の来世において、無量無辺不可思議劫という長い時間を過ぎて、幾千万億の仏を供養し、正しい仏法を奉り保持し、悟りを求める修行者の行うべき道を行って、きっと仏となるはずだ。
その名前を『華光如来(けこうにょらい)』・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と言い、仏に対する十種の称号を得るであろう。

国を『離垢(りく)』と名付ける。その国土は平坦であり、清浄であり、神聖に飾られ、安穏で豊かで楽しく、天人や人間でにぎわっているであろう。瑠璃が地面に敷き詰めらて、八つの道がある。黄金を縄にしてその道の側道を仕切り、そのそばに七宝の樹があり、常に花や果実がなっている。


華光如来は、また三種類(三乗)の教法を用いて衆生を教化するであろう。舎利弗よ、あの仏が世に出現される時は悪世でなくとも、昔に衆生を救済するために立てた誓願によって、三種類(三乗)の教えを説かれるであろう。


その劫を『大宝荘厳(だいほうしょうごん)』と名付ける。なぜ大宝荘厳と名付けるかというと、その国の中では悟りを求める修行者を大きな宝とするためだ。その諸々の悟りを求める修行者は計り知れないほど沢山いて、数えることも例えることもできないほどである。仏の知力でなければ、よく知る者はいない。もし歩こうとする時には、宝の花が足を受け止める。

この諸々の悟りを求める修行者は、初めて発心した者ではない。皆長い間、自らを高め他を感化する精神的能力を得るための修養をして、無量百千万億の仏の所において清らかに仏道の修行を行い、常に諸仏がほめたたえることを行い、常に仏の道理を正しく把握する精神を修行し、どんなことも自由自在になし得る計り知れない不思議な力を持ち、よく一切諸々の仏法への入り口を知り、じみでまじめで偽りがなく意思が堅固である。このような悟りを求める修行者が、その国に満ち溢れているであろう。

舎利弗よ、華光仏の寿命は十二小劫であろう(王子となってまだ仏になっていなかったときは除く)。その国の人民の寿命は、八小劫であろう。華光如来は、十二小劫を過ぎて堅満菩薩に未来において悟りを開く事を予言して、比丘らに告げるであろう。『この堅満菩薩は次にきっと仏となるであろう。名前を華足安行、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀と言う。その仏の国土もまたこの様であろう』と。

舎利弗よ、この華光仏がこの世を去ったあと、正しい教えが世に存在すること三十二小劫、教法や修行は行われても悟りが得られなる時代(像法)が世に存在することもまた三十二小劫であろう」

その時に仏は、重ねてこの意義を述べようとして、仏徳を賛歌して詩を説いて言われました。

「舎利弗は来世に、仏普智尊と成って名前を華光というであろう。まさに数え切れない人々を悟りの境地へ導くであろう。無数の仏を供養し、悟りを求める修行者の修行を修め、仏のみが持つ十の力などの現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を身に備え、この上ない道の悟りを開く。


無量劫という長い年月を過ぎて、劫を大宝厳と名付け、その世界を離垢と名付ける。清浄であり欠点がなく、土は瑠璃でできていて、金の縄が道を区切り、七宝で色とりどりの樹木に常に花や果実がある。彼の国の諸々の悟りを求める修行者は意思が常に堅固であり、神通力や迷いの世界から悟りの世界へ到達する修行を皆すでに兼ね備え、無数の仏のところにおいてよく仏道修行の道を学んでいる。このような悟りを求める心を起こした人々は、華光仏の教えにより教化されたのだ。

仏が王子であるとき、国を捨てて世の中の名誉を捨てて、仏道修行者が仏と成る最後の身において出家して仏道を成すであろう。華光仏が世に生きた寿命は十二小劫である。その国の人民は寿命が八小劫である。仏がこの世を去られた後、正しい教えが世に存在すること三十二小劫の間、広く衆生を悟りの境地に導くであろう。正しい教えが絶えたあと、教法や修行は行われても悟りが得られなる時代が世に存在することまた三十二小劫。舎利が広く流布して、天人や人間が広く供養するであろう。

華光仏の振る舞い、そのことは皆このようである。その両足を具えている人間の中で最も尊い者は、最もすぐれていて比べるものがない。彼はすなわちおまえ自身である。おまえは当然自ら幸運と思い喜ぶべきである」

天人たちの歓喜と舎利弗のさらなる願い

そのときに四部の衆(出家男子、出家女子、在家信士、在家信女)、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽等の大衆は、舎利弗が仏の前において「来世に悟りを開くであろう」と予言され約束されたのを見て、心が大いに歓喜して躍り上ること無量でした。

各々、身につけた上衣を脱いで仏に供養しました。帝釈天・梵天王らは無数の天子と共に、天の妙衣・天の花、天上に咲くという白い大きな蓮華をもって仏に供養しました。散らされた天衣は虚空の中を舞い回転し、諸々の天人は百千万種の伎楽を虚空において一斉に鳴らし、諸々の天花を雨のように降らせてこう言いました。

「仏は昔バラナにおいて初めて教えを説き、今すなわちまた、この上なく最大の仏の教えをお説きになった!」

その時、諸々の天子は重ねてこの意味を明らかにしようとして、仏徳を賛歌して詩を説いて言いました。

「昔バラナにおいて、この世はすべて苦であること、その苦の因は煩悩であること、その煩悩を滅すること、八正道の実践修行が煩悩を滅した理想の涅槃に至る手段であるという四諦の教えを説き、諸々の事理を思量して、この世に存在する有形や無形の一切のものや、物質的・身体的なものとしての色蘊、感覚作用としての受蘊、表象作用としての想蘊、意志欲求などの心作用としての行蘊、対象を識別する作用としての識蘊という五蘊の生滅を説かれた。


そして今また、最も不思議なまでに優れ、この上ない教えを説かれる。この教えは甚だ深遠であり奥深く、よく信じる者が有ることは少ない。

我らは昔から数多くの世尊の教えを聞いてきましたが、未だかつてこれほど深遠で微妙な優れた教えを聞いた事がありません。世尊がこの教えを説かれ、私たちは皆ありがたく思い大いに喜びました。大いなる智慧をもつ舎利弗は、今世尊から未来に最高の悟りを得るであろうという予言を受けました。私たちもまたこのように必ずきっと仏となり、全ての世間においてもっとも尊ばれこの上なくなることを得るに違いありません。


仏道は思いはかることのできない、相手に応じて巧みな方法で説かれるのです。私が持っている善い行い、今の世または過去世、および仏に会えたという現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行のことごとくを、仏道に差し向け自他ともに悟りを得るための助けといたしましょう」

そのときに舎利弗は、仏に向かって言いました。

「世尊、私は今疑いはございません。親しく仏の前に於いて、この上ない悟りを得るであろうということを予言し約束されました。
しかし、この諸々の千二百の心が自在な者たちは、昔、悟りを得るためにまだ修行を必要とするときに、仏は常に教化しておっしゃいました。『私の教えは、よく生、老、病、死の苦悩から離れさせ、煩悩の火が消された状態の安らぎを究める』と。この、もはや学ぶべきもののない境地の者もそうでない者も、また自ら自分だけの偏った見方や狭い考えやいずれにも偏らない中道の真理の考えを離れたことによって、永遠の平安を得たと言っておりました。


しかしながら今、世尊の前において今まで聴いたことがなかった教えを聞いて、皆疑いに陥っていたのです。
それは素晴らしいことです、世尊。願わくは出家者や在家者の男女のために、その内的原因と外的原因を説いて、疑いを解いてくださいますように」

そのときに仏は、舎利弗に告げられました。

「私は以前、諸々の仏が種々の因縁と譬えと優しい言葉によって、相手に応じてわかりやすく教えを説いたのは、皆この上ない悟りのためであると言わなかったか。この諸々の教えは、皆悟りを求める修行者を教化するための理由である。
しかし舎利弗よ、今また譬えによってこの意味を更に明らかにするべきである。諸々の相対世界に向かう働きの智がある者は、譬えによって悟る事が出来るからである」

有名な「三車火宅(さんしゃかたく)」の喩え話

「舎利弗よ。もしも、ある国、村、集落に大長者(大富豪)がいたとする。
年老いて身は衰えていたが、財産は数え切れないほどあり、多くの田、家、下男がいた。その家は広大で、唯一つの門があった。諸々の人々が多く、百、二百または五百人がその中に住んでいた。しかし堂閣は朽ち古び、垣や壁は崩れ落ち、柱の板は腐り、梁や棟は傾いて危ない状態であった。

その時、その家のいたる所に突然火が起って燃えはじめた。
長者の子供達が十人、二十人、或いは三十人、この家の中にいた。長者はこの大火が四方から起ったのを見て、すぐに大いに驚き怖れてこう思った。


『私は巧みにこの焼けている家の門から無事に出る事ができたけれども、しかし子供たちは、燃えている家の中においてうれしそうに遊び戯れることに執着していて、感じることもなく、知ることもなく、驚くこともなく、怖れることもない。火が迫り来て、苦しみと痛みが自分に迫って来ているのに心は気にも留めず、出ようと願う意思がない』

舎利弗よ、この長者はこのように心に浮かべてよく考えた。
『私は体にも手にも力がある。当然、衣服で包み、若しくは机でも抱え出すようにしてこの家から出すべきだ』
しかしまたさらに、このように心に浮かべた。
『この家にはたった一つの門があり、しかもまた狭小である。子供達は幼くまだ怖いものを知らないから、遊び戯れる事に執着している。或いはきっと落ちて火に焼かれるに違いない。私は当然怖ろしいという事を説くべきである。この家はもう燃えている。できるだけ早く逃げ出して火に焼かれないようにしなさい』

このように考えて、心に浮かべてよく考えたように子供たちに告げた。『おまえたち早く出なさい』と。
父はかわいそうに思い、ためになるよい言葉によって誘い諭したけれども、子供たちはうれしそうに遊び戯れることに執着して全く信じ受け入れず、驚かず畏れず、ついに出ようという心がなかった。また、火とは何であるか、家とは何であるか、何を失うのか判らなかった。ただ東西に走り戯れて、父を見ていた。

その時、長者はこう思った。
『この家は既に大火に焼かれている。私とこの子らがもしもここから出なかったならば、必ず焼け死ぬであろう。私は今当然、目的を達するための便宜上の手段(方便)を設けて、子供たちをこの災害から免れさるべきだ』

父は、子供たちがそれぞれ新しいものを好み、様々な珍しい玩具や変ったものを必ず喜ぶ事を知っていたので、こう告げた。
『おまえたちが好んで遊ぶ、とても珍しく手に入れる事が難しいものがある。おまえがもしも取らなかったら、あとで必ず後悔するだろう。このような羊の車、鹿の車、牛の車がいま門の外にある。それによって遊び戯れなさい。おまえたちはこの燃えている家から早く出て来なさい。おまえの欲しいものを、皆きっとおまえに与えるに違いない』

その時、子供たちは父が珍しい玩具の事を話すのを聞き、その願いをかなえるために、心はそれぞれ勇み立ち互いに押しあい、争って共に走り燃える家から出た。


この時に長者は、子供たちが安全に家から出る事ができて、皆が四方に通じている道の中の広場に坐ってまた障害がなく、その心は落ちつき歓喜し躍り上るのを見た。
その時に子供たちは、各々父に向かって言った。


『父よ、先ほど約束された玩ぶ道具の羊の車、鹿の車、牛の車を、願わくは今お与えください』

舎利弗よ、その時に長者は、それぞれの子供に等しく一つの大きな車を与えた。
その車は高く広く、様々な宝石で飾り、欄干をめぐらしてあり、四面に鈴をかけてあり、またその上に天蓋を吊り、珍しい宝石で美しく飾ってあった。宝石で飾った縄をめぐらして花房を垂らし、敷物を重ねて敷き、朱の枕が置いてあった。白い牛がそれを牽いた。その肌の色は清らかで形は美しく、大きな筋力があり、歩くときは平正であり疾い事は風のようであった。また多くの下男達がこれを守っていた。

理由は何故かというと、この大長者は富裕で財貨は沢山あり、種々の倉庫は全てみな充満していたからである。そして、こう思ったのだ。


『わたしの財物には極まりがないのであるから、劣った小さな車を子供達に与えてはならない。今この幼い子は皆わが子である。愛するのに差別はない。私には、このような七宝造りの大きな車があって、その数は無量である。当然、平等な心で各々にこれを与えるべきであり、差別してはならない。理由は何故かというと、私のこの物を国中に与えたとしてもなお乏しくはならないからである。まして子供たちに与えたとしても乏しくはならない』


この時、子供たちは各々大きな車に乗って、今までに経験したことのないことを得たが、これは子供たちがはじめに望んでいたものとは違っていた。

舎利弗よ、おまえの意見はどう思うか。この長者は、子供たちに平等に珍しい宝の大きな車を与えたことは、嘘をついた事になるのかならないのか」

舎利弗は言いました。
「嘘ではありません。世尊、この長者は、ただ子供たちを火の難から免れさせ、その命を全うさせようとしたのであって、これは嘘をついたのではありません。それは何故かというと、もしも命を全うすれば好きな玩具も得る事ができるからです。まして、方便によってあの燃える家から、しかもこれを救い出したことは言うまでもありません。


世尊、もしこの長者が最も小さい一つの車さえ与えなかったとしても、なお嘘をついた事にはなりません。それは何故かというと、この長老は先にこのように思っていたからです。『私は目的を達するための便宜上の手段によって、子供を家の外に出そう』と。この因縁によって嘘をついた事にはならないのです。しかも長者は自ら富裕で財貨無量であると知り、子供たちの願いをかなえてやろうとして平等に大きな車を与えたことは言うまでもありません」

譬喩が示す「仏の真意」とは

仏は、舎利弗にお告げになりました。

「よく言った、よく言った、おまえの言う通りだ。舎利弗よ、如来もまたそれと同じである。すなわちこれ、一切世間の父なのだ。諸々の怖れ、悩み、憂い、迷いの根本的な無知、暗に覆われることをなくしているのだ。しかも、ことごとく無量の事物に対する正しい認識と力と、畏れることのない態度を完成し、大いなる霊妙不可思議な力と智慧力を持ち、人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段と、すべては『空』であると理解することを身につけている。一切衆生の苦を取り除き楽を与える広大無辺な慈悲は常に尽きることなく、常に善事を追求して一切の人々を利益する。

しかも、一切衆生が生まれまた死んで往来する世界のような、朽ちた燃えている家(火宅)に生まれ、衆生を生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・愚痴・闇・三毒の火の中から救い出す。教化して、一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得させたいと思うからである。


諸々の衆生を見ると、生・老・病・死・憂・悲・苦・悩の為に焼かれ、また財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲と利財の為に種々の苦しみを受けている。また貪り執着し追求するために現世では諸々の苦しみを受け、後の世では地獄、畜生、餓鬼の苦しみを受ける。もしも天上界に生まれたり人間界に生まれたりすれば、貧窮や困苦、愛する者に別離する苦しみ、憎む者に会う苦しみなどの諸々の苦がある。


人々はその中に沈んで住み、歓喜し、遊び戯れて、理解せず、知らず、驚かず、怖れず、また嫌がらずそこから解放される事を求めず、この生まれまた死んで往来する世界の燃える家において東西に走り回り、大きな苦しみに遭ってもそれを憂いともしない。

舎利弗よ、仏はこれを見終わってこのように思った。
『私は生命のあるものすべての父である。その苦難を抜き去り、無量無辺の仏の智慧の楽しみを与え、それによって遊び戯れるようにさせるべきである』と。

舎利弗よ、如来はまたこう思った。
『もしも私が、ただ神通力と智慧力のみをもって、人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段(方便)をすてて、諸々の生命のあるものすべてのために如来の事物に対する正しい認識と力と自信とを讃えたとすれば、生命のあるものすべてはこれによって悟ることは出来ないであろう。理由は何故かというと、この諸々の衆生は未だ生、老、病、死、憂、悲、苦、悩を免れる事ができず、三界の燃える家で焼かれているからである。どうして仏の智慧を悟ることなど出来ようか』と。

舎利弗よ、かの長者が体や手に力があってもしかしこれを用いることなく、ただ巧妙な目的を達するための便宜上の手段によって子供たちを燃えさかる家の中から救い出し、そうした後で各々に珍しい宝石でできた大きな車を与えたように、如来もまたこのようにするのである。


力があり恐れることはないといえどもこれを用いることなく、ただ智慧と、人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって、生まれまた死んで往来する世界の火宅から生命のあるものすべてを救い出そうとして、そのために三つの乗り物である、自己の悟りのみを求める修行者の立場(声聞乗)、独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者の立場(縁覚乗)、自分が仏になるとともに他をも悟りに至らせる菩薩の立場(菩薩乗)を説いたのだ。しかもこう言ったのだ。

『おまえたちは、生まれまた死んで往来する欲界・色界・無色界の三つの世界の燃える家に住みたいと思ってはならない。粗末で害になる形や声や香りや味や触覚を貧ってはいけない。もしもそれらを貪り執着して愛着を生じたならば、それに焼かれるであろう。おまえたちは早くこの三つの世界を出て、当然、声聞の立場、独り悟る者の立場、仏の立場という三つの立場を会得するべきである。私は今、おまえたちのためにこのことを保証し空しく終らない様にしよう。おまえたちはただ努力し、雑念を去り仏道修行に専心しなさい』と。


如来は、人を真実の教えに導くため仮にとるこの便宜的な手段によって衆生の心を誘う。またこのように言った。
『おまえたちは当然知るべきである。この三つの立場の教えはみな聖人が称嘆されたことを。自在であり縛られることがなく、よりどころがない。この三つの乗り物に乗って、悟りの状態の五つの感覚器官の働きと、悟りに至らせる五つの力、悟りを得るための7種の修行法、修行の基本となる8種の実践徳目、心を明らかにして真正の理を悟るための修行法と、解脱と、三昧などによって自ら楽しんで、無量の安隱と楽しみとを得るに違いない』と。

舎利弗よ、もしある衆生がいて内に智性があり、仏に従って仏法を聞いてこれを信じ受け入れ、真心を込めて雑念を去り仏道修行に専心して、早く三界を出ようと欲して自ら永遠の平安を求める、これを声聞乗(しょうもんじょう)と呼ぶ。彼の諸々の子供たちが、羊の車を求めて燃える家から出て行ったようなものである。


もしもある衆生がいて仏に従って教えを聞いて信じ受け入れ、真心を込めて雑念を去り仏道修行に専心して、自然の道理を観察して人為を離れて法の本性をよく見極め、道理を正しく把握する精神作用を求め、独り寂かに生活する事を願い、深くこの世に存在する有形や無形の一切のものの存在の因縁を知る者があれば、これは独りで悟る者という立場に立つ者であり、辟支仏乗(ひゃくしぶつじょう=縁覚乗)と呼ぶ。彼の諸々の子供たちが、鹿の車を求めて燃える家から出て行ったようなものである。


もしもある衆生がいて仏の教えに従って仏法を聞いて信じ受け入れ、真心を込めて雑念を去り仏道修行に専心して、一切のものについて完全に知る智慧、完全円満な仏の智慧、人為を離れて法の本性をよく見極め道理を正しく把握する精神作用、自分ひとりで身に付けた智慧、如来の事物に対する正しい認識・力・法を説くときの何ものをも畏れない態度などを求め、無量の生命のあるものすべてをあわれみ安楽にさせ、天人と人間とを利益し、全ての人々を迷いの世界から救う者があれば、これは自己の解脱だけを目的とするのでなくすべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるという立場に立つ者であり大乗(だいじょう=菩薩乗)と呼ぶ。悟りを求める修行者である菩薩がこの立場を求める理由から、この大乘を求める修行者を摩訶薩と名づける。彼の諸々の子供たちが、牛車を求めて燃える家から出て行った様なものである。

舎利弗よ、彼の長者が、子供たちが安穏に燃える家から出る事ができ畏れのない場所に至ったのを見て、自ら富裕であり財貨が無量である事を思って平等に大きな車を子供たちに与えたように、如来もまたこれと同じである。


如来はこの世に生を受けたすべての生き物の父なのだ。もしも無量億千の生命のあるものすべてが仏教の教えによって、生まれまた死んで往来する世界の苦しみや怖れに満ちた険しい道を逃れ出て永遠の平安という楽しみを得たのを見たならば、如来はこう思う。
『私にははかり知れず果てしない智慧と力と、教えを説くときの何ものをもおそれない態度という諸仏の教えの蔵がある。この諸々の生命のあるものすべては皆これ我が子である。等しく大きい乗り物を与え、単独で生死の迷いを超越した悟りの境地を得る人がないようにする。皆、如来の生死の迷いを超越した悟りの境地によって、彼らを悟らせるようにする』と。

この諸々の生命のあるものすべてが、生まれまた死んで往来する世界を脱れた者には、悉く諸仏の、精神を集中し寂静の心境に達することや完全な精神的自由を得ることなどの娯楽の相手を与える。これは皆ただ一つの姿かたちでありただ一種であって、聖者が称嘆せられるものである。巧みにこの上なく清浄な第一の楽しみを生ずるものである。

舎利弗よ、彼の長者は初め三種類の車で子供たちを誘い、そして後にただ宝石に飾られた安穏第一の大きな車を与えたのであるが、それでもかの長者は嘘をついた事にはならないように、如来もまたこれと同じなのだ。嘘をついた事にはならないのだ。


初めに三つの教法を説いて生命のあるものすべてを導いて悟りの道に入らせ、そうして後にただ大いなる教法によってこれを迷いの世界を渡らせそこから抜け出させるのだ。それは何故かというと、如来には無量の智慧と力と教えを説くときの何ものをもおそれない態度や諸々の教えの蔵があって、よく全ての衆生に大いなる立場の教えを与えるからである。その全てを受けとる事はできないのだ。


舎利弗よ、この理由によって当然知るべきである。諸仏は衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働き(方便)によって、仏の真の教えは唯一である仏の教法において、道理をよくわきまえて三つの教法を説かれたのである」

詩で語られる三車火宅の物語

仏は、重ねてこの意味を明らかにしようとして、仏徳を賛歌して詩を説いて言われました。

「例えば長者に一つの大きな邸宅があったとする。その邸宅は古び、また腐敗し荒廃し、大小の建物は高く危険で、柱の根元は砕け朽ち、梁や棟は傾き斜めになり、階段はくされこわれ、垣や壁はやぶれさけ、塗り土ははげ落ち、屋根を覆った苫は乱れおち、縁やひさしは食い違い脱け落ち、めぐらした障壁は曲り、いろいろなよごれが充満していた。

五百人の人がいてその中に住んでいた。鳶、梟、熊鷹、鷲、烏、かささぎ、山鳩、家鳩、とかげ、へび、マムシ、サソリ、ヤモリ、ムカデ、イタチ、狸、二十日鼠、鼠、諸々の悪虫などが交わりあちこちに走りまわり、糞尿の臭い所には不浄物が流れあふれ、糞虫や諸々の虫がその上に集まり、狐、狼、子狐が噛み砕き踏みあらして死屍を食い、骨や肉は散らばり、これによって犬が群れ競ってやって来てくわえて取り合い、飢えやつれ恐れてそこかしこに食べ物を求め、闘い争ってひきずり、いがみ、はがみして吠える。その家の恐怖に満ち変っている有様はこの様である。

いたる処にさまざまな妖怪変化、夜叉や悪鬼がいて人肉を食らう。毒虫の属や諸々の悪鳥、悪獣は産んで卵をかえし乳をのませ、各々自らかくし護っている。夜叉は競ってやって来て争って取ってこれを食らう。これを食べてすでに飽きれば悪心はいよいよ高まり、闘争する声は甚だ怖ろしい。


人の精気を吸う鬼神クバンダは土くれの上にうずくまっている。あるときは大地を離れ飛び上がること一尺二尺、往ったり返ったり遊びまわり欲しいままにはしゃぎまわり、犬の両足をとらえて撲って声が出ないようにし、足で首を絞めて犬を怖がらせて自ら楽しむ。


またいろいろな鬼がいる。その身体は大きく裸で黒く痩せていて、常にその中に住んでいる。大きな耳障りな声を発して叫び食いものを求めている。またいろいろな鬼がいる。その喉は針のように細い。またいろいろな鬼がいる。首は牛の頭のようで、あるいは人の肉を食らい、あるいはまた犬を食らう。頭髪をヨモギのように乱し、傷つけ殺し心はよこしまで荒々しい。飢えとかわきに迫られて大声でわめきさけび走り回っている。夜叉と餓鬼、諸々の悪鳥悪獣、飢えに迫られて四方に向かい窓からうかがい見ている。この様な諸々の難があり、恐ろしいこと無量である。

この朽ち古びた家は一人の持物である。その人が近くに外出してまた長く経たない間、後に家に突然火が起こり、四面一時に火が燃えさかった。棟や梁や橡や柱は大きな音とともに振動して裂け、砕かれ折れて崩れ落ち、垣根と壁は崩れ倒れる。
諸々の鬼神たちは声を上げて大いに叫ぶ。熊鷹や鷲などの諸々の鳥、鬼神クバンダたちはあわておどろいて自ら出ることもできず、悪獣・毒虫は穴にかくれ、欲色餓鬼もまたその中にいた。福徳が薄い為に火に迫られ、共に傷つけ殺しあい血を飲み肉を食らっている。狐の仲間はすでに前に死んでしまった。諸々の大悪獣は競ってやって来てそれを食らう。臭いと煙が乱れ起って四面に充満し、ムカデ、げじげじ、毒蛇の類、火に焼かれて争って穴から走り出し、鬼神クバンダはそれを取って食う。また諸々の餓鬼、頭の上に火が燃え、飢えや渇きにひどく悩まされあわてて悶え走る。その家はこの様に甚だ恐ろしい有様であり、毒害や火災などの多くの難が一つではなかった。

この時に家の主は門外にいて立って、ある人が話すのを聞いた。『おまえの子供たちは以前にいつも遊び戯れていたのでこの家の中に入って来て、幼少で無知なので遊びに夢中になっている』。長者はこれを聞き終って、驚いて燃え盛る家の中に入った。うまく救い出して焼け死なないようにさせ、子供たちに教え諭し諸々の悩みや苦しみを説いた。悪鬼、悪虫、火災が蔓延している。多くの苦しみが次から次へと連続して断えない。毒蛇やトカゲやマムシや、諸々の夜叉、鬼神クバンダ、野狐、狐、犬、熊鷹、鷲、鳶、梟、ムカデなどは、飢えや渇きに悩まされること急であって甚だ恐ろしい。この苦さえどうしようもないのに、まして大火でなおさらである。子供たちは無知であって、父の教えを聞いてもなお楽しみ執着して、嬉しそうに遊び戯れてやまない。

この時に長者はこう思った。
『子供たちはこのように私の愁いを増させるばかりだ。今この家には一つとして楽しみはない。しかも子供たちは遊びまわる事に溺れて私の教えを受けず、まさに火に焼かれようとしている』


そこで心に浮かべてよく考え、諸々の方便を考えて子供らに告げた。
『私には種々の珍しい玩具と美しい宝石で飾られた立派な車がある。羊の車、鹿の車、大きな牛の車だ。今、門の外にある。おまえたち、出てきなさい。私はおまえたちのためにこの車を作ったのだ。意のままに、その車で遊びなさい』


子供たちは説くを聞いて、この様ないろいろな車の説明を聞いてすぐさま先を争って走り外に出た。空地に至って諸々の苦難を離れた。

長者は、子供たちが燃える家を出られて四辻に坐っているのを見て、獅子の座に坐り自ら喜んで言った。
『私は今やっと安楽になった。この子供たちは生育する事が非常に難しい。愚かで幼く無知であり、危険な家の中に入った。いろいろな毒虫や化け物が多く恐ろしい。大火や激しく燃えさかる焔が四面に起った。しかしこの子供たちはうれしそうに遊び戯れ気楽であった。私は既に彼らを救って難を逃れさせた。このために人々よ、私は今安楽なのだ』

その時子供たちは父が安心して坐っているのを知り、皆父のところにやって来て父に向かって言った。
『願わくは私達に三種類の宝車を下さい。前に許された事のように「子供たちよ家から出て三種の車で、おまえが望むようにしなさい」と。今こそその時です。ただお与えください』


長者は大いに富み蔵はいっばいである。金・銀・瑠璃、シャコ貝・メノウがあり、多くの宝石によって諸々の大きな車を造った。美しく飾り立て、欄干をめぐらし四面に鈴をかけ、金の縄をめぐらし真珠の網をその上に張りめぐらし、金の花房が処々に垂れ下り、色彩豊かな織物をまわり一面に飾り、軟らかな綿を敷物にし、上等なフェルトで価値が千億もして真白で清らかであるそれによってその上を覆ってあった。大きな白牛でよく肥えて力が強く形も美しい、これをもって宝車を引かせた。大勢の従者達がこれに従っていた。この美事な車を平等に子供らに与えた。


子供らはこの時喜びに躍り上り、この宝車に乗って四方に遊び、うれしそうに遊び戯れ楽しむこと自由自在であった。

舎利弗に告げる。私もまたこの通りなのだ。多くの聖者達の一人であり世間の父である。一切の衆生は皆わが子なのだ。深くこの世の楽しみに執着して、物事をよく見極め道理を正しく把握する心がない。三界は安らかなことはなく、あたかも燃える家のようである。多くの苦しみが充満して甚だ怖ろしい有様だ。常に生・老・病・死の苦悩があり、これらの火は勢いが盛んで激しく燃えさかっている。

如来は既に衆生が生まれまた死んで往来する世界の燃える家を離れて、静かに俗を逃れて心静かに暮らし、林や野に安らかに住んでいる。今この欲界・色界・無色界の三つの世界は皆私の領域である。その中の衆生はことごとくこれわが子である。しかも今この場所には諸々の苦しみが多い。ただ私一人だけがよく救う事が出来る。また教え示しても信じ受け入れようとはしない。諸々の欲に染まってむさぼりや執着が深いために。そこで真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段(方便)によって彼らの為に三つの教法を説き、諸々の生命のあるものすべてに生まれまた死んで往来する世界の苦しみを知らしめ、生まれまた死んで往来する世界から脱出する道を開示し演説するのだ。

この子供たちは、もし心が定まりさえすれば、過去と現在と未来を知る三つの能力と、神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六種の神通力とを備えて、独りで悟る者となり、また仏道修行の過程ですでに得た境地から後戻りしない悟りを求める修行者となるであろう。


舎利弗よ、私は衆生の為にこの喩えによって仏の真の教えは唯一であるという仏の立場を説いた。おまえたちがもしよくこの言葉を信じ受け入れたならば、全て皆きっと仏道を成就するであろう。この教義は一言では言い表せないほど細かく複雑であって、清浄なこと第一である。諸々の世間において無上のものである。仏の喜ばれるところである、この世に生を受けたすべての生き物、全ての衆生が賞賛し供養し礼拝すべきところである。無量百千の諸々の力、解脱、禅定、智慧および仏のいろいろな教えがあり、この様な教義を得させて諸々の子供たちを日夜無限の長い時間に常に遊び戯れる事が出来るようにする。諸々の悟りを求める修行者と自己の悟りのみを求める修行者たちと、この宝の乗り物に乗って直ちに道場にいたらせるのだ。

この事物現象を生滅させる諸原因をもって十方をつぶさに探し求めても、さらにこれ以外の悟に達する乗り物はない。仏の真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段を除いては。
舎利弗に告げる。おまえたちは諸々の人々はみなわが子である、私はすなわちこれ父なのだ。おまえたちはきわめて長い時間諸々の苦悩に焼かれている。私は皆を悟りの境地に導き苦悩を抜き去り、生まれまた死んで往来する世界から脱出させるのだ。
私は前におまえたちは生死の迷いを超越した悟りの境地へ至ったと説いたけれども、ただ生まれまた死んで往来することから抜け出したのであり、しかも実際には滅していない。今なすべき所はただ物事をありのままに把握し真理を見極める仏の認識力を得ることである。

もし悟りを求める修行者がいるならば、この人々の中においてよく一心に諸々の仏が永遠不変の実体としての存在であるという教えを聞け。諸々の仏世尊は真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段を用いたとしても、教化された生命のあるものすべては皆これ悟りを求める修行者である。もしもある人が浅はかな知恵で深く愛欲に執着するなら、これらのためにこの世界は苦しみを本質としているという真理を説かれる。生命のあるものすべての心は喜んで、今までに一度もなかった思いを得た。仏の説かれたこの世界は苦しみを本質としているという真理は真実であって変わることはない。

もし生命のあるものすべてがいて苦悩の本質を知らず、深く苦悩の直接の原因に執着して少しの間も捨てることができないならば、これらのために真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって道をお説きになる。諸々の苦悩の直接の原因は貪って飽くことを知らないことが根本である。もし貪って飽くことを知らないことをなくすならば、力や徳のあるものに依存しそれを頼みとすることもない。諸々の苦悩をことごとく滅ぼしなくすことを第三の諦と呼ぶのだ。執着を断ち苦を滅することが悟りの世界であるという滅諦のために仏道を修行するのだ。諸々の苦悩や束縛を離れることを名づけて解脱と呼ぶのだ。


この人はどのようにして解脱を得るのであるか。ただうそ偽りと妄想から離れたことを解脱と呼んでいるのだ。それは実は未だ全ての解脱を得てはいないのだ。仏はこの人は未だ実際には生死の迷いを超越した悟りの境地に達していないとお説きになる。その人は未だこの上ない道を得ていないために、私の意識においても生死の迷いを超越した悟りの境地に導いたとは思わない。私は教えの王であり、教えにおいて望むとおりに物事をなしうる。衆生を安らかならしめるこの理由のために世に現われたのだ」

法華経を誹謗する者の恐ろしい罪の報い

「おまえ、舎利弗よ。私のこの仏教を他の教派から区別する根本的な教義である諸法実相は、世間を利益しようと願うがために説いたのだ。おまえが歩きまわる地方でみだりに宣伝してはいけない。もし聞く者があって随喜してこれを頭に頂いて受け入れる者があったなら、当然この人は不退転の人であるに違いないと知れ。もしこの経に書かれた教えを信じ受け入れる者があるなら、この人は既にかつて過去において仏を見奉って恭しく敬い供養し、またこの教えを聞いていたのだ。もしある人がよくおまえの説く説法を信じるならば、すなわちこれは前世において私を見、またおまえを見て、そして出家得度した僧ならびに諸々の悟りを求める修行者を見たのだ。

この法華経は深い智慧ある者のために説く。知識が浅い者はこれを聞いて不快になったり戸惑い理解できない。全ての自己の悟りのみを求める修行者や独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者は、この経の内容においては理解する力が足りないのだ。
おまえ、舎利弗よ。この経においては、なお信じることによって入る事ができたのだ。いわんや、他の自己の悟りのみを求める修行者達は言うまでもない。その他の自己の悟りのみを求める修行者も仏の言葉を信じるためにこの経に隨順するのだ、自分の事物や道理を識知、判断、推理する精神作用や能力によってではないのだ。

また舎利弗よ、高慢で怠惰で自分だけの偏った見方や狭い考えを信じている者にはこの経を説いてはいけない。仏の教えを理解せず知識が浅く、深く財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲の五欲に執着している者は聞いても理解することは出来ない。またそのために説いてはいけない。


もし人が信じないでこの経を非難すれば、全ての世間のすべての生き物が生まれながらにもっている仏となることのできる種子を断ち切るだろう。或いはまた眉をしかめて疑惑をいだく者がいるなら、おまえは当然私が説くのを聞くべきである。この人の受ける罪のむくいについて。


もしくは仏の在世中、もしくは仏がこの世を去られた後に、このような経典をそしることがあって、経を読み節をつけて唱え書写するものを見て、見くだし、馬鹿にし、憎み妬み恨みを懐くなら、この人の罪の報いをおまえは今聞きなさい。

その人が命を終えた後、阿鼻地獄へ入るであろう。一劫という長い間留まり、一劫が終わればまた生まれ、このように繰り返して無数劫という長い期間に至るであろう。


地獄から出たあとは畜生界に落ちるであろう。もし犬や子狐に生まれれば、その体は毛が禿げて肉が落ちてやせ細り、色が黒く疥癬虫の寄生によって皮膚病があり人になぶりものにされ、また人に憎まれ賎しまれる。常に飢えや渇きに苦しみ、骨は枯れ肉はやせ衰え、生ある間は苦しみを受け死ねば瓦や石を投げつけられる。仏となるための種子を断ち切ったが為にこの罪の報いを受けるのだ。
若しくはラクダや若しくはロバの中に生まれ、身体に常に重い荷を背負い鞭や棒で打たれ、ただ水や草のみをほしがって他には何も知ることがない。この経をそしったが為に罪を受けることこのようである。或いは子狐となって村に入り込めば、体には疥癬虫の寄生によって起こる皮膚病や痙攣や痛みがあり、片目はなく子供たちに打たれ叩かれて諸々の苦痛を受けてあるときは死に至る。

こうして死ねばさらに大蛇の身となり、その姿は長大であって五百由旬(3千5百Km)にもなる。耳が聞こえず、愚かで、足もなく、身をくねらせて腹ばい、諸々の小虫にすすられ食われ、昼夜に苦しめられて休むこともできない。この経をそしった為に罪の報いを受けることこのようである。


もし人間になったときも、目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・肌(触覚)・意(感情)は暗く鈍く、小人、引っつり、いざり、めくら、つんぼ、せむしとなるであろう。ものを言っても人は信用せず、口は常に臭く鬼とばけものにとりつかれる。貧しくて生活に苦しみ生まれや育ちが卑しく人に使われ、病気が多くやせ細り頼りにするところもなく、人に近づいても人は相手にしてくれず、もし何かを得ることがあってもすぐに無くなってしまう。もし医学を修めてそれによって病気を治せばさらに他の病気になり、あるいはまた死に至る。もし自らが病気ならば人が救って治療してくれることもなく、たとえよい薬を飲んでもまた痛みが激しくなる。または他の人に背かれ略奪され盗まれる。このような罪が続けざまにその災いをこうむるであろう。

このような罪人は、長い間仏や諸々の聖者たちの王の説法や教化されることを見ることがない。このような罪人は常に危険な場所に生まれ、気が狂っていて耳が聞こえず心が乱れていて、長い間教えを聞くことがない。数え切れない長い間、ガンジス川の砂の数のように生まれては耳の聞こえず言葉を話せず、目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・肌(触覚)・意(感情)に障害を持つ。常に地獄にいること園林・高台に遊ぶようである。その他の悪の道にあること我が家のようである。らくだ、ロバ、猪、犬、これがその者たちの行く所である。この経をそしったために罪をこうむることこのようである。

もし人間となることができても、耳が聞こえず目も見えず口もきけない、貧乏と困窮諸々の衰えによって自らを飾り、水ぶくれ、のどがかわいて小便が出なくなる病気になり、疥癬虫の寄生による皮膚病、腫れ物、このような病をもって衣服とし、身体は常に臭く垢でよごれて不浄である。深く常住不変の実体があるとする誤った考えに執着して、自分の心に逆らうものを怒り恨むことを増大し、色情の欲が火が燃え上がるように勢い盛んで鳥やけだものさえも選ばない。この経をそしったために罪をこうむることこのようである。


舎利弗に告げる。この経をそしるもの、もしその罪を説くとすればきわめて長い時間をきわめても尽きることはない。この因縁のために私はおまえに語るのだ、知恵のない人の中でこの経を説くことをしてはならない」

法華経を説くべき真の仏道修行者とは

「もし賢く知恵が優れ、多くの教えを聞いて学識があり仏道を求める者があるならば、このような人にその人のために説きなさい。
もし人がかつて億百千の仏を見て諸々の仏の悟りを得るもとになる善い功徳を植え、ひたすら仏道を求めようとする心が堅固であるなら、このような人にそのために説きなさい。
もしある人が雑念を去り仏道修行に専心して常に慈悲の心を修め、身体や命も惜しまないならば、このような人のために説きなさい。


もしある人が慎み深くて裏切りをたくらむ心がなく、諸々の平凡でおろかなことを離れて一人山や沢に住むならば、このような人にその人のために説きなさい。

また舎利弗よ。もし人がいて悪法や邪法を説いて悪に誘い込む人を捨ててよい友と親しく近づくなら、このような人にその人のために説きなさい。


もし仏の弟子で戒を堅く守りうそやごまかしなどがなく、清らかで透明で曇りのない玉のようであり大乗の経典を求めるのを見たならば、このような人にその人のために説きなさい。
もしある人が憎しみの心がなく、じみでまじめで仏教に従いその心が穏やかで、常に全てをあわれみ諸々の仏を恭しく敬う、このような人にその人のために説きなさい。
また仏の弟子が大衆の中において、清らかでけがれのない心で種々の因縁やたとえや言葉によって説法するさまが何ものにもとらわれないならば、このような人にその人のために説きなさい。

もし出家男子が一切のものについて完全に知る智慧のために四方に仏法を求めて合掌し頭に頂き、ただ願って大乗の経典の教えのみを銘記して忘れず、または仏教以外の経典の一つの詩ですら受け入れようとしないならば、このような人にその人のために説きなさい。


ある人がまことの心において仏舎利を求めるようにこのように経典を求め、求め得てそれを頭に頂き、この人はまた他の経典を求めずまた未だかつて異教の経典や書籍を心に思ったことがないならば、このような人にその人のために説きなさい。

舎利弗に告げる。私がこのようにして仏道を求める者のことを説くならば、劫という限りなく長い時間をかけても尽きることはない。このような人はよく信じ理解するであろう。
おまえは当然、このような人のためにこの妙法華経を説くべきである」


■ 主な参照文献

  • 『現代語訳 法華経』(2025年11月刊」)
    創価学会教学部 編(聖教新聞社)
    ※本文の構成・現代語訳・語義理解の確認に使用
  • 『法華経(上)』
    坂本幸男・岩本裕 訳注(岩波文庫、岩波書店)
    ※サンスクリット原典の構造および仏教用語の学術的確認のため参照
  • 『妙法蓮華経 並開結』
    (鳩摩羅什 訳)
    ※漢訳原典に基づく章構成・ストーリーの流れの確認に使用

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