【現代語訳で読む】四信五品抄:末法における法華経修行の真髄と題目の功徳

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四信五品抄

建治3年(1277年)

はじめに

「四信五品抄」は、建治3年(1277年)、日蓮大聖人が56歳の時に身延の地で著された御書です。下総国(現在の千葉県)の門下である富木常忍(ときじょうにん)に与えられたと考えられています。

本作は、「末法における法華経の初心の行者は、仏道修行の基本である『三学(戒・定・慧)』をすべて具備しなければならないのか」という当時の学者の問いに対して答えられたものです。
大聖人は、法華経の分別功徳品に説かれる「四信五品(ししんごほん:仏滅後における修行の段階)」を根拠とし、末法の初心の行者は、布施や持戒といったその他の修行(五度)を制止し、ただ「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること(一念信解・初随喜)こそが唯一の正しい修行であると明かされました。
そして、この題目の五字には仏の一代の教えと功徳がすべて収まっており、意味を理解していなくても、ただ題目を唱えるだけで絶大な功徳を得ることができると説いています。
さらに、この題目を唱える無名の門下たちが、いかに尊い存在であるかを経文に照らして力強く宣言されています。

目次

末法における修行の明鏡・法華経流通分

近頃の学者たちが一同に存じていることには、「仏の在世と滅後という違いはあるといえども、法華経を修行するには必ず三学(戒・定・慧)を具えなければならない。一つ欠けても悟りを成ずることはできない」等云々。

私はまた、年来この義(末法の修行のあり方)について考えているところですが、釈尊の一代の教えについてはしばらくこれを置いておきましょう。
法華経に入ってこの義を見聞きするに、序分と正宗分(しょうしゅうぶん)の二つの段についてはしばらくこれを置いておきましょう。流通分(るつうぶん:教えを後世に伝える段)の一段を、末法の明鏡として最も依り用いるべきであります。
そして流通分において二つあります。一つには、いわゆる迹門の中の法師品等の五品です。二つには、いわゆる本門の中の分別功徳品の半分から経の終わりまでの十一品半です。
この十一品半と五品とを合わせた十六品半、この中に、末法に入って法華経を修行する姿が分明に示されています。
これでもなお納得がいかないのであれば、普賢経・涅槃経等を引き寄せてこれを糾明すれば、その隠れるところがないのは明らかではないでしょうか。
その中の分別功徳品の「四信」と「五品」とは、法華経を修行する際の大要であり、在世と滅後の亀鏡(明鏡)であります。

四信・五品の初位と一念三千の法門

荊谿(けいけい:妙楽大師)は言います。「一念信解(いちねんしんげ)とは、即ちこれ本門の行を立てる首(はじめ)である」等云々。
その中において、現在の四信の初めである「一念信解」と、滅後の五品の第一である「初随喜(しょずいき)」と、この二つの箇所は一同に百界千如・一念三千の宝の箱であり、十方三世の諸仏が出生する門であります。
天台・妙楽の二人の聖賢がこの二か所の位を定めるのに、三つの解釈があります。
いわゆる、あるいは「相似の十信・鉄輪の位」とする。あるいは「観行の五品の初品の位であり、未だ見思の惑を断じていない位」とする。あるいは「名字即の位である」とします。

『摩訶止観』において、その定まらないことを会通して言います。「仏の御心は知り難い。人々の機根に赴いて異なる説をなされる。これ(一つの解釈)を借りて悟りを開いたならば、どうして労わしく苦しんで諍う必要があろうか」等云々。

私の考えでは、三つの解釈の中で、「名字即」が経文に叶うのではないでしょうか。
滅後の五品の初めの一品を説いて言います。「毀謗せずして随喜の心を起さん」。
もしこの文が、相似即や五品(観行即)の位にわたるならば、「毀謗せずして」という言葉は都合が悪い(そぐわない)のではないでしょうか。
なかんずく、寿量品の「失心」と「不失心」は皆名字即であります。涅槃経に「若しは信じ、若しは不信にして、乃至、煕連(きれん)のごとし」とあります。これを考えなさい。

また「一念信解」の四字の中の「信」の一字は四信の初めに居り、「解」の一字は後に奪われる(後の位に属する)ためです。
もしそうであるならば、「無解有信(解は無いが信は有る)」は四信の初めの位に当たります。経に第二信を説いて言います。「その言趣を解するあらん」云々。
妙楽大師の『法華文句記』の第九巻に言います。「唯だ初信を除く、解が無いゆえに」。

したがって、その次の随喜品に至って、上の初随喜を重ねてこれを分明にしています。五十人が次第に法を伝えていくのは皆、次第に劣っていくのです。
第五十人に至って二つの解釈があります。一つには、「第五十人は初随喜の位の内である」という。二つには、「初随喜の位の外である」というものです。この「外である」というのは名字即であります。
「経がいよいよ真実であれば、位はいよいよ下がる」という解釈は、この意味であります。

四味三教(爾前教)よりも円教は機根の低い者を摂め、爾前経の円教よりも法華経は機根の低い者を摂め、迹門よりも本門はあらゆる機根を尽くして摂めるのです。
「経弥実位弥下(経いよいよ実なれば、位いよいよ下れり)」の六字は、心に留めて考えるべきです。

末法の初心の行者と戒定慧の三学

問う。
末法に入って、初心の行者は必ず円教の三学(戒・定・慧)を具備しなければならないのでしょうか、そうではないのでしょうか。

答えて言う。
この義は大事であります。ゆえに経文を考え出してあなた(貴辺)に送付します。
いわゆる、五品の初めの二品、三品においては、仏は正しく戒と定の二法を制止して、もっぱら慧の一分に限っています。慧もまた堪えられないので、信をもって慧に代えるのです。「信」の一字を根本(詮)とします。
不信は一闡提や謗法の原因であり、信は慧の原因であり、名字即の位であります。

天台大師は言います。「もし相似即の利益は、生まれ変わっても忘れない。名字即や観行即の利益は、生まれ変われば即ち忘れる。あるいは忘れない者も有り、忘れる者ももし善知識に出会えば過去の善根が還って生ずる。もし悪友に出会えば即ち本心を失う」。

恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も、天台・伝教の善知識の教えに違背して、心は善無畏・不空等の悪友に遷ってしまいました。
末代の学者も、恵心の『往生要集』の序に騙惑されて法華経の本心を失い、阿弥陀仏の権門に入りました。「大を退いて小を取る(大乗を退いて小乗の教えを取る)」者であります。
過去の行いをもってこれを考えますと、未来は無数の劫を経て三悪道に処するでしょう。「若し悪友に値えば則ち本心を失う」とはこの事であります。

問うて言う。
その証拠はいかがでしょうか。

答えて言う。
『摩訶止観』の第六巻に言います。「前教(爾前経)がその位を高くするゆえんは、方便の説だからである。円教の位が低いのは真実の説だからである」。
『止観輔行伝弘決』に言います。「前教というより下は権実を判じている。経がいよいよ真実であれば、位はいよいよ下がる。経がいよいよ権(仮の教え)であれば位はいよいよ高いゆえに」と。
また『法華文句記』の第九巻に位を判ずることを言って、「観ずる境涯がいよいよ深く真実であって、位がいよいよ低いことを顕す」云々。

他の宗派はしばらく置いておきましょう。天台の一門の学者等が、どうして「実位弥下(実教であれば位は下がる)」の解釈を閣いて(差し置いて)、恵心僧都の筆(往生要集など)を用いるのでしょうか。
善無畏・金剛智・不空と、慈覚・智証との事については、追ってこれを習いなさい。大事です、大事です。一閻浮提第一の大事であります。心ある人はこれを聞いた後で私を疎んじなさい。

初心の行者への五度制止

問うて言う。
末代の初信の行者は、何物を制止するのでしょうか。

答えて言う。
檀波羅蜜(布施)や尸羅波羅蜜(持戒)等の五度(五波羅蜜)を制止して、もっぱら南無妙法蓮華経と称えさせることを、一念信解・初随喜の気分(修行の姿)とするのです。これこそが、すなわちこの経の本来の意図であります。

疑って言う。
この義は未だ見聞きしたことがありません。心を驚かし、耳を迷わせます。明らかに証拠の文を引いて、どうか、ねんごろにこれを示してください。

答えて言う。
経(法華経分別功徳品)に言います。「我が為に復た塔寺を起て、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須いず(必要としない)」。
この経文は、明らかに初信の行者に対して、檀や戒等の五度を制止する文であります。

疑って言う。
あなたが引く所の経文は、ただ寺・塔と衆僧への供養ばかりを制止して、未だ諸々の戒律等には及んでいないのではありませんか。

答えて言う。
初めの代表的なものを挙げて後を省略しているのです。

問うて言う。
何をもってこれを知るのでしょうか。

答えて言う。
次の下の第四品(兼行六度品)の経文に言います。「況んや復た人あって、能く是の経を持ち、兼ねて布施・持戒 等を行ぜんをや」云々。
経文には分明に、初めの二品、三品の人には檀・戒等の五度を制止し、第四品に至って始めてこれを許しています。後に許すのをもって、初めに制止していることを知るのです。

問うて言う。
経文は一応似たように見えます。はたまた注釈書(疏釈)にありますか。

答えて言う。
あなたが尋ねる所の注釈とは、インドの四依の論でしょうか。はたまた中国・日本の人の師匠の書でしょうか。
根本を捨てて末端を尋ね、本体を離れて影を求め、水源を忘れて流れを貴んでいます。分明な経文を閣いて論や解釈を請い尋ねるとは。根本の経に相違する末端の解釈があれば、根本の経を捨てて末端の解釈に付くべきでしょうか。
そうであるとはいえ、あなたの好みに随ってこれを示しましょう。

『法華文句』の第九巻に言います。「初心の者は、外の縁に紛動されて正業を修することを妨げられることを畏れる。直ちに専らこの経を持つことが、すなわち上の供養である。事を廃して理を存することは、その利益が広大であると」。
この解釈において、「縁」と言うのは五度のことです。初心の者が兼ねて五度を行えば、正業である「信」を妨げるのです。例えれば、小さな船に財宝を積んで海を渡る時に、財宝と共に沈んでしまうようなものです。
「直専持此経(直ちに専らこの経を持つ)」とは、法華経一経にわたることではありません。専ら題目を受持して他の文を交えないことです。なお法華経一経の読誦をも許しません。ましてや五度を修行することなど論外です。
「廃事存理(事を廃して理を存する)」と言うのは、戒律等の「事(実践)」を捨てて、題目の「理」を専らにするということです云々。
「所益弘多(所益が広大である)」とは、初心者が諸行と題目を並べて行えば、得るべき利益を全く失ってしまうということです云々。

『法華文句』に言います。「問う。もしそうであれば、経を持つことは即ちこれ第一義の戒である。何が故にまた『能く戒を持つ者』と言うのか。答う。これは初品に明かすことである。後の位をもって難を作してはならない」等云々。
当世の学者たちは、この解釈を見ずして、末代の愚人を中国の南岳・天台の二聖と同等としています。誤りの中の誤りです。

妙楽大師が重ねてこれを明かして言います。「問若爾とは、もし事(現実)の塔及び色心(肉体と精神)の骨を必要としないならば、また事の戒を持つことも必要としないはずである。乃至、事の僧を供養することを必要としないのか」等云々。

伝教大師は言います。「二百五十戒はたちまちに捨て終わった」。
ただ伝教大師一人に限ることではありません。鑑真の弟子である如宝・道忠ならびに七大寺等も一同に捨て終わりました。
また伝教大師は未来を戒めて言います。「末法の中に持戒の者が有ればこれは怪異である。市に虎が有るようなものである。これを誰が信ずるべきか」云々。

題目に一切の功徳が収まる理由

問う。
あなたはどうして一念三千の観門(観心の修行)を勧進せずして、ただ題目ばかりを唱えさせるのでしょうか。

答えて言う。
「日本」の二文字に六十六か国の人や家畜や財宝をことごとく摂め尽くして一つも残しません。「月氏(インド)」の両文字に、どうして七十か国が無いことがありましょうか。
妙楽大師は言います。「略して経の題を挙げるに、奥深く一部を収める」。また言います。「略して十界十如を挙げるに、具さに三千を摂める」。
文殊師利菩薩・阿難尊者は、三会八年の間の仏の言葉を取り挙げて「妙法蓮華経」と題し、次の下に領解して「如是我聞(かくの如く我聞けり)」等と言っているのです。

問う。
その意味を知らない人が、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えて、意味を理解したのと同じ功徳を具えるのでしょうか、そうではないのでしょうか。

答う。
小さな子供が母の乳を含む時に、その味を知らなくても、自然に身体を益します。名医の耆婆(ぎば)が作った妙薬を、誰がその成分をわきまえてこれを服するでしょうか。水に心は無くても火を消し、火が物を焼くのにどうして覚りがあるでしょうか。龍樹菩薩・天台大師も皆この意味で言っています。重ねて示すべきことです。

問う。
何が故に、題目に万法を含むのでしょうか。

答う。
章安大師が言うには「蓋し序王とは経の玄意(奥深い意味)を叙す。玄意は文心(経文の真髄)を述べる。文心は本門と迹門に過ぎたるものはない」。
妙楽大師は言います。「法華経の文心を出して諸経の所以(理由)を弁ずる」云々。
濁水は心が無くても月が自然にこれを清めます。草木は雨を得て、どうして覚りがあって花が咲くのでしょうか。
「妙法蓮華経」の五字は経文ではありません、その意味でもありません、ただ法華経一部の意(魂)そのものなのです。初心の行者はその心を知らなくても、これを修行すれば自然にその意に当たるのです。

法華経の初心の行者の尊き位

問う。
あなたの弟子たちが、一分の理解もなくして、ただ一口に「南無妙法蓮華経」と称するその位はいかがでしょうか。

答う。
この人は、ただ四味三教(爾前経)の極意ならびに爾前の円教の人に超過するのみならず、はたまた真言等の諸宗の元祖である善無畏・金剛智・不空、慈恩・法蔵・道宣、達磨・善導等に勝れ出ること百千万億倍であります。
どうか、国中の諸人よ、私の末弟等を軽んじてはなりません。
進んで過去を尋ねれば、八十万億劫の間、仏を供養した大菩薩であります。どうして煕連一恒(ガンジス川の砂の数ほどの功徳を得る)の者ではないでしょうか。
退いて未来を論ずれば、八十年の間布施をした功徳を超過して、五十展転の功徳を備えるべきです。天子の赤子がむつき(おむつ)に纏われていても、あるいは大龍が初めて生まれたようなものです。
蔑ろにしてはなりません、蔑ろにしてはなりません。

妙楽大師が言うには「若し悩乱する者は頭が七つに破れ、供養すること有らん者は福が十号(仏の十の尊称)に過ぎん」。
優陀延王は賓豆盧尊者を蔑ろにして七年の内に身を喪失し、相州(北条氏)は日蓮を流罪にして百日の内に兵乱(北条時輔の乱など)に遭いました。
経(法華経普賢品)に言います。「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん。乃至 諸の悪重病あるべし」等云々。また言います。「当に世世に眼なかるべし」等云々。
明心と円智とは現実に白癩を得、道阿弥は眼の無い者となりました。国中の疾病は頭が七つに破れたものです。罰の姿をもって得るべき功徳を推察するに、我が門人等は「福過十号(福は仏に過ぎる)」に疑いない者であります。

日本の仏法の変遷と三大師の大謗法

そもそも人王第三十代欽明天皇の時代に初めて仏法が渡って以来、桓武天皇の時代に至るまで、二十代二百余年の間、六宗が有ったとはいえども仏法は未だ定まりませんでした。
ここに延暦年中に一人の聖人があってこの国に出現しました。いわゆる伝教大師がこれです。
この人は先から弘通する六宗を糾明し、七大寺を弟子となして、ついに比叡山を建てて本寺となし、諸寺を取って末寺としました。日本の仏法はただ一つの門となりました。王の法も二つではありません。法が定まり国は清まりました。その功績を論ずるならば、源は法華経の「已今当」の文から出ています。

その後、弘法・慈覚・智証の三大師は、事を中国の権威に寄せて「大日の三部は法華経に勝る」と言い、おまけに伝教大師が削られた真言宗の「宗」の一字を付け加えて「八宗」としました。
三人は一同に勅宣を申し下して日本に弘通し、寺ごとに法華経の義を破っています。これは偏に「已今当」の文を破ろうとして、釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵となりました。
そうした後、仏法は次第に廃れ、王法は次第に衰え、天照太神・正八幡等の久しく住していた守護神は力を失い、梵天・帝釈・四天王は国を去り、すでに亡国となろうとしています。情のある人なら、誰が傷み悲しまないでしょうか。

所詮、三大師の邪法が起こる所は、いわゆる東寺と、比叡山の惣持院と、園城寺との三か所であります。これを禁止しなければ国土の滅亡と衆生が悪道に堕ちることは疑いないことではないでしょうか。
私は、大まかにこの旨を考え、国主に示しましたが、あえて聞き入れ用いられることはありません。悲しむべきことです、悲しむべきことです。

【参考文献】
本現代語訳は、日蓮大聖人の遺文の標準的な底本に基づき、仏教史および天台教観の文脈を考慮して独自に現代語訳したものです。翻訳および注釈の参考とした主要文献は以下の通りです。

1. 原典・遺文集

  • 『日蓮大聖人御書全集』(創価学会)
  • 創価学会教学出版委員会 編『日蓮大聖人御書全集 新版』(創価学会)

2. 現代語訳・解説書

  • 渡辺宝陽・小松邦彰 訳注『日蓮書簡集』(岩波文庫)
  • 中公バックス 大乗仏典 中国・日本篇 第24巻『日蓮』(中央公論社)
  • 御書翻訳委員会 編『現代語訳 日蓮大聖人御書』(聖教新聞社)

3. 辞典・事典類

  • 織田得能 著『仏教大辞典』(大蔵出版)
  • 中村元ほか 編『岩波 仏教辞典』(岩波書店)

※なお、本記事の現代語訳は、上記の原典および参考文献に基づき、原文に忠実かつ現代人に読みやすくなるよう当ブログが独自に訳出したものです。

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